◎読書200冊超え
私の事で大変恐縮ですが、平成22年から始めた読書が27年末で200冊を超えました。年平均30冊以上ですが、今は更に月10冊を目標に加速しております。そうは言っても奥さんからは「そげーん読んでるならもう少し人間が変わらんなら!」と言われておりますが……。?
◎日々の実践項目
1)毎日15紙以上に目を通す
2)読書月10冊
3)スポーツクラブ2時間/週3
4)御書一日一行以上拝読
5)題目2時間/月20万遍
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◎今日の夫婦の会話
妻「周りを見ていると、私はずっと仕事せんでいいから、お父さんのお陰で恵まれていると思うよ♪」
私「俺もそれがいいもん」
妻「やっぱり私は仕事に行かん方がいいね?」
私「女が外に出るとまだ心配せんなんくらいあるもん」
妻「あはは…なあん…そげなことあるもんか」
私「60歳代のおっさんからするとちょうど良かよ!」
妻「私、お父さんが一番やけん」
( ^-^)ノ∠※。.:*:・'°☆
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真言諸宗違目 141頁 第六章
法華経の行者を諸天が守護するを明かす
文永九年五月 五十一歳御作
但し先業未だ尽きざるなり日蓮流罪に当れば教主釈尊衣を以て之を覆いたまわんか、
去年九月十二日の夜中には虎口を脱れたるか
「必ず心の固きに仮りて神の守り即ち強し」 等とは是なり、
汝等努努疑うこと勿れ決定して疑い有る可からざる者なり、恐恐謹言。
五月五日 日 蓮 花 押
此の書を以て諸人に触れ示して恨を残すこと勿れ。
土木殿
<通解>
諸天善神が日蓮を守護されることは疑いないのであるが、日蓮の先業がいまだ尽きていないのである。それゆえに難にあうのである。しかし、日蓮が流罪されれば、教主釈尊は衣をもってこれを覆ってくださっているであろう。
去年の9月12日の夜中に虎口をのがれたのはこのためであろう。
妙楽大師の止観輔行伝弘決に「かならず心が堅固であるならば、諸天善神の守護は強い」等とあるのはこのことである。
あなたたちは、決して決して諸天の加護を疑ってはならない。決して疑ってはならない。
恐恐謹言
五月五日 日 蓮 花 押
この手紙を門下以外の諸人に触れ示して、恨みを残すようなことがあってはならない。
土木殿
<解説>
ただし、大聖人が今、迫害にあうのは、過去に作った悪業がまだ尽きていないからである、と述べられている。
この宿業の転重軽受の原理については、本抄より1か月ほど前に著され、門下一同に与えられた佐渡御書にも
「高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、
日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、
此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」(0960−02)と述べられている。
大聖人が、竜の口法難に続いて佐渡流罪にあっいぇいるのは末法の時に適った正法を弘通して法華経の敵を強くせめたからこそであり、大難にあうことによって過去の謗法の重罪を消滅することができたのである、と仰せられているのである。
示同凡夫の辺から、大聖人は自ら大難にあい、それを乗り越えることによって成仏する姿を示して、いかに過去に謗法の重罪を犯した者でも、宿業を転じて成仏でき得る方途を明かしてくださっているのである。
そして、法華経の行者として大難にあわれた大聖人を、教主釈尊が衣をもって覆い守るであろうとされ、だからこそ去年の9月12日の夜半の竜の口法難の際に、幕府権力による処刑という逃れられないはずの虎口を、不思議に免れることができたのであり、妙楽大師の止観輔行伝弘決に「必ず心が固ければ神の守りも強い」とあるのはこのことである、とのべられている。
文永8年(1271)9月12日深夜の竜の口法難の経緯等は種種御振舞御書に詳しいので、参照されたい。
釈尊が衣をもって覆うとは、法華経普賢菩薩勧発品第28に「若し是の法華経を受持し、読誦し、正憶念し、修習し、書写すること有らん者は、当に知るべし…釈迦牟尼仏の衣に覆われることを為ん」とあることにより、仏が法華経を信じ行ずる者を大慈悲によって覆い守ることをいう。
大聖人が、絶体絶命ともいうべき竜の口首の座を免れることができたのは仏の加護があったからであると、教えら、仏天の加護を少しでも疑ってはならないと戒められて、本抄を結ばれているのである。
更に追伸で、本抄の内容を門下以外の諸人に広く触れ示して、恨みを起こすことがないようにと仰せられている。第一章の「空に読み覚えよ」の御文が、このあとに続くと考えられる。あくまでも無用な刺激を世間に与え、苦難を招くことがないようにとの、深い慈愛からの仰せと拝せられる。