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2017.2.21

2017年02月22日 (水) 02:22
2017.2.21

本日の聖教1頁
「但(ただし)生涯(しょうがい)本(もと)より思い切(きり)て候(そうろう)今に飜返(ひるがえ)ること無(な)く其(そ)の上又(また)遺恨(いこん)無し諸(もろもろ)の悪人は又善知識(ぜんちしき)なり」
富木殿御返事 文永九年四月 
五十一歳御作 於佐渡一の谷
『本より思い切り候』
『人生は強気でいけ!』
………………?

昨夜37.2度の微熱。
お客さんからたまたま貰ったみかんを5個食べて寝たら今朝36.0度?
大牟田市役所で仕事中に妻よりLine
「体調は大丈夫ですか」
私「体調はいい。顔は良くないけど?」
妻「体調心配してたので良かったですいい男ですよ?自信持ってね?」
???

北朝鮮やっと三変土田の兆し!

??????????????????

真言天台勝劣事 136ページ????
第九章 説処、対告衆への邪難を破す???
文永七年 四十九歳御作?

『二乗の仏に成るを密教』
◎大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ二乗作仏を説かざるを顕教と云へり
<通解>
大智度論には二乗が仏に成る軽報を密教といい、二乗の成仏を説かないのを顕教というとしている。

<解説>

『大智度論巻100』
この文は竜樹の大智度論巻100の一節を取意されて、正しい意味での顕教と密教の立て分けの基準を明確にされたところである。

『大薬師の能く毒を以って薬と為す』
その一節では「問うて曰く、更に何の法か甚深にして般若に勝るもの有って、而して般若を以って阿難に嘱累し、而して余の経をば菩薩に嘱累せしや。答えて曰く、般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而して法華等の諸経には阿羅漢の受決作仏を説き、大菩薩は能く受持し用う。譬えは大薬師の能く毒を以って薬と為すが如し」という文である。

『般若波羅蜜』
ここは一つの問答になっていて、まず、般若波羅蜜を声聞の阿難に付嘱し、他の経を菩薩に付嘱したのは、他の経の中には般若波羅蜜より勝る深い法が説かれているか、と問うている。

『阿羅漢の作仏』
その答えとして、般若波羅蜜はまだ秘密の法ではないのに対し、法華経等の諸経には阿羅漢の作仏が説かれていて大菩薩のみがこの法をよく受けたもち、用いることができるのである、と述べている。

『二乗の作仏こそが“秘密の法” 』
この文の意をとって、大聖人は二乗の作仏を説いた教えこそが“秘密の法”すなわち、密教であり、これを説かない教えは秘密の法ではないから顕教になるとされているのである。

『自宗の優位性を示すために利用』
もともと、顕教と密教の教判は大智度論巻4に「仏法に二種有り、一には秘密、二には現とあるのを、弘法が自宗の優位性を示すために利用したにすぎないのである。

『弁顕密二経論等』
弘法がこの教判を展開したのが前述のように弁顕密二経論等である。それによれば、顕教は報身・応身の釈迦仏が衆生の機根に応じて顕に分かりやすく説いた教えのことであり、密教は法身の大日如来が自ら悟りの法を享受し楽しみつつ示した三密の法門であり、菩薩の智慧をもってしても知りがたい深遠秘奥の教えであるから秘密というとしている。そして、この密教に当たるのが大日経等の真言三部経であり、真言三部経以外の釈尊が説いた法華経等の教えは顕教であるとしたのである。

『秘密の本来の意義は二乗作仏』
この弘法の説を受けついでいる真言宗の主張に対し、大聖人は真言経は法身・大日如来の説法であるということの遇昧ぶりを指摘される。とともに、秘密ということの本来の意義は二乗作仏を可能にするか否かにあることを大智度論の真義に立ち返って明かされ、弘法が立てた真言経と法華経の勝劣を逆転されているのである。

『顕密の事』
なお、真言見聞には「顕密の事」という項目を設けられて次のように破折されているので引用しておきたい。

『金言の所出を知らず』
「抑大日の三部を密説と云ひ法華経を顕教と云う事金言の所出を知らず、所詮真言を密と云うは是の密は隠密の密なるか微密の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に篭むるは微密なり、二には疵・片輪等を隠すは隠密なり、然れば則ち真言を密と云うは隠密なり其の故は始成と説く故に長寿を隠し二乗を隔つる故に記小無し、此の二は教法の心髄・文義の綱骨なり、微密の密は法華なり、然れば則ち文に云く四の巻法師品に云く『薬王此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり』云云、五の巻安楽行品に云く『文殊師利・此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り』云云、寿量品に云く『如来秘密神通之力』云云、如来神力品に云く『如来一切秘要之蔵』云云、しかのみならず真言の高祖・竜樹菩薩・法華経を秘密と名づく二乗作仏有るが故にと釈せり、次に二乗作仏無きを秘密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず、…此等の経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き秘密教と定め給へるを 経論に文証も無き妄語を吐き法華を顕教と名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや。」(0144−12)と。

『いつでも取り出せるような緻密』
『疵などの欠陥を隠す隠密』
ここでは、秘密の秘に二種類あり、金銀等の宝物が蔵に収まっていて見えないがいつでも取り出せるような緻密と、疵などの欠陥を隠す隠密とがあるとされ、法華の密が微密であるのに対し、真言のそれは隠密であると断じられている。すぐれた心理が含まれているが、それが深いため凡夫・衆生には捉えがたいのが「微密」であり、欠陥があるので隠さなければならないのが「隠密」である。真言経典は、大日如来がどこかの時点で“始めて成った”仏にすぎず、また二乗作仏も説かないなど欠点だけの経であるのに、それを隠しているのであると指摘されている。


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