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2016.12.7

2016年12月08日 (木) 01:20
2016.12.7

うちは妻が猛者、夫が鎧兜、妻がいなければ夫は何の価値があろう!!

法華真言勝劣事
『理同事勝の義に二難有るを明かす』
文永元年43歳御作 123ページ

『理同事勝に二難』
◎抑(そもそも)天台真言宗の所立(しょりゅう)・理同事勝に二難有り、
<通解>
ところで、天台真言宗の立てた理同事勝に二つのひなんすべき点がある。

『先後如何』
◎法華経と大日経と先後如何、
<通解>
一には法華経と大日経と理同の義其の文全く之無し、
<通解>
一には、法華経と大日経とが理がおなじであるという義を説いた経文は全くない、ということである。

『法華経は先き大日経は後」?!
◎既に義釈(ぎしゃく)に二経の前後之を定め畢(おわ)つて法華経は先き大日経は後なりと云へり、
<通解>
法華経と大日経との説かれた順序はどうかというと、既に大日経義釈には二経の前後を定めて法華経が先で大日経が後であると述べている。

『大日経は法華経の重説なる流通なり』
◎若し爾らば大日経は法華経の重説なる流通なり、一法を両度之を説くが故なり若し所立の如くば法華経の理を重ねて之を説くを大日経と云う、然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は大日経の理之を奪つて法華経に付く可し、
<通解>
もしそうであるならば、大日経は「法華経の重説なる流通」である、一法を両度これを説くためであり、もし説かれるところであるならば法華経の理を重ねて説くのを大日経という、そうであるならばとりもなおさず法華経と大日経とが対立する時は大日経の理を奪って法華経のものとすべきである。

『但印真言計り』
◎但し大日経の得分は但(ただ)印真言計りなり、
<通解>
ただし、ただ印と真言だけは大日経の得分である。

『意無くば』
◎印契(いんけい)は身業・真言は口業なり身口のみにして意無くば印・真言有る可からず、
<通解>
印契は身業であり、真言は口業である。身と口とだけで意がなければ、印と真言もありえない。

『手無く…口無くして…虚空に…』
◎手口等を奪つて法華経に付けなば手無くして印を結び口無くして真言を誦せば虚空に印真言を誦結(じゅけつ)す可きか如何、
<通解>
手と口などを奪って法華経のものとしてしまったら、手がなくて印を結び口がなくて真言を誦すようなものであり、それでは虚空に印を結び真言を誦すことになるが、どうか。

『裸形の猛者と甲冑を帯せる猛者』
◎裸形(らぎょう)の猛者と甲冑(かっちゅう)を帯せる猛者との譬の事、裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退いて一陣をも破らざるとは何れが勝るるや、
<通解>
裸の猛者と鎧兜を着けた猛者との譬えについていえば、裸の猛者が突き進んで強大な陣を破るのと、鎧兜を着けた猛者が退いて一陣さえ破らないのとは、どちらが勝れているか。

『猛者は法華経、甲冑は大日経』
◎又猛者は法華経なり甲冑は大日経なり、猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん此れは理同の義を難ずるなり、
<通解>
また猛者が法華経であり、鎧兜は大日経である。猛者がいなければ鎧兜は何の価値があろう。以上は理同の義を論難したのである。

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎
【解説】
次に、天台真言宗で立てる理同事勝の義に、二つの難点があることを指摘される。その一つは「理同」すなわち、法華経と大日経の理が同じとする義についてである。

これには全く文証がないうえ、仮に「理同」とした場合も、法華経と大日経は、どちらが先に説かれたかについて、大日経義釈では法華経が先で、大日経が後に説かれたとしている。

そうであるなら、大日経は法華経の義を重ねて説いたものであるから流通分ということになる。したがって、法華経と大日経が対立するときは、理が先に説かれた法華経のものであり、大日経の独自性はただ印と真言のみということになる。

そして、印を結ぶことは身による行為であり、真言を唱えることは口による行為であるが、意の行為である理が具わっていない印・真言は単なる形式にすぎず、全く意味がないのである。

印を結ぶ手、真言を唱える口はその人の意によって働くものであるから、意が法華のものなら手と口も法華のもので、印・真言だけの大日経は、手がなくて印を結び、口がないのに真言を誦えよというのと同じになり、虚空に印を結び、真言を誦すような空虚なものになってしまうのである。

また、裸の猛者と甲冑を着けた猛者との譬えについていえば、裸の猛者が進んで敵陣を破るのと、甲冑を着けた猛者が敵陣を前に退いてしまうのとは、どちらが勝れているかは明白ではないか、と仰せになっている。

これは、甲冑を着けているかどうかではなく、敵陣を破るかどうかが「猛者」の本質であることを指摘され、印・真言の有無が成仏の法の本質ではないことを示されているのである。

また、猛者が法華経で、甲冑が大日経だとすれば、猛者がいなければ甲冑も何の用にもたたないではないか。とも破されている。

法華の法理がない大日経は、無用であることを明かされているのである。

以上が、天台真言宗の立てた「理同」に対する破折にあたる。

☆結論ーー
猛者が法華経で鎧兜は大日経、猛者がいなければ鎧兜は何の価値があろう!
ーー※うちは妻が猛者、夫が鎧兜、妻がいなければ夫は何の価値があろう!! ???

(^^)v(^^)v(^^)v(^^)v(^^)v(^^)v(^^)v(^^)v(^^)v
今日も福岡市内で一日研修でした。

一緒に仕事をしている妹が、今日の聖教4頁の声の欄に載りました。

我が家は奥さんで、事務所は妹で、お客さんは職員で、私はお題目で、持っています!?


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