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2016.12.4

2016年12月06日 (火) 01:22
2016.12.4

法華真言勝劣事
文永元年43歳御作
122ページ

<前段>
初めに、法華経と大日経の理が等しいということは、何を根拠にしているのかとの問いには、善無畏三蔵等の説を記した一行の大日経疏とそれを再治した大日経義釈、および慈覚・智証の釈によるとの答えが示される。

(ここから、問答形式で天台真言の邪義に対する破折が加えられていく)

『疑う可からず』
◎求めて云く此等の三蔵・大師等は又何を以て之を知るや理は斉等の義なりと、答えて云く三蔵・大師等をば疑う可からず等と云云、

<通解>
尋ねていう。これらの三蔵や大師等はまた、何をもって理は等しいという義を知ったのか。
答えていう。三蔵や大師等を疑うべきではない、等々。

<解説>
そこで、それでは彼らは何によってそれを知ったのかと詰めると、善無畏等の三蔵や慈覚・智証等の大師を疑うべきではない、との答えが返ってくることを記されている。


『仏の遺言に違背す』
◎難じて云く此の義・論義の法に非ざる上仏の遺言に違背(いはい)す慥(たしか)に経文を出す可し若し経文無くんば義分無かる可し如何、

<通解>
難詰していう。この義は経文の文義を問答する法に則っていないうえ、仏法の遺言に背している。明確に経文を出すべきである。もし経文がないならば、その道理はないことになるかどうか。

<解説>
そして、相手の問いに答えないで、ただ信ぜよという態度は、互いの疑問を明かしていくべき論議の法に背いているうえに、仏の遺言である「法に依って人に依らざれ」の教えに違背していると指摘され、たしかな経文を出すべきであり、もし経文がないならばその義もないことになるかどうか、と破折されている。


◎答う威儀形色経(いぎぎょうしききょう)・瑜祇経(ゆぎきょう)・観智儀軌(かんちぎき)等なり、文は口伝す可し、

<通解>
答えていう。威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等にある。文は口頭で伝えよう。

<解説>
それに対して、威儀形色経や瑜祇経・観智儀軌等によるが、文は口頭で述べる、との答えを記されている。大聖人は叡山で学ばれたので、天台真言での答えの限界を身にしみて知っておられたのである。

なお、威儀形色経 (いぎぎょうしききょう)
とは、法華漫荼羅威儀形色法経のことで、不空の訳とされる。法華経の見宝塔品に説かれる多宝如来の出現を基にした宝塔品の儀式を、密教様式の曼荼羅に表した経である。

瑜祇経 (ゆぎきょう) とは、金剛峰楼閣一切が瑜祇経のことで、金剛智の訳、不空の訳との説もある。金剛界・胎蔵界の両部が不二であるとの極秘を理知不二の仏が明かした経とされ、真言宗では秘経として重視されている。

観智儀軌 (かんちぎき) とは、成就妙法蓮華経王瑜伽観智儀軌のことで不空の訳とされる。

法華経の見宝塔品に説かれる釈迦・多宝の二仏並座の説を中心に、文殊・薬王・弥勒・普賢等の諸菩薩を配した曼荼羅が説かれている。威儀形色経や観智儀軌は法華経を密教に変形した経論なのである。

『仏か経家か訳者か』
◎問うて云く法華経に印・真言を略すとは仏よりか経家よりか訳者よりか、答えて云く或は仏と云い或は経家と云い或は訳者と云うなり、
<通解>
問うていう。法華経に印と真言を略したのは、仏の説法の時からか、経典を結集した時からか、それとも訳者の時からか。
答えていう、ある人は仏の説法の時からと言い、ある人は経典を結集した時からと言い、ある人は訳者の時からと言っている。

<解説>
更に、法華経に印・真言を略すというのは、仏が略して説かなかったのか、経を結集した人が略したのか、漢語への翻訳者である鳩摩羅什が略したのかとの問いには、あるいは仏といい、あるいは経家といい、あるいは訳者というように、答えが定まっていないとされている。


『我意の浮言』…自分勝手ないい加減な言
◎不審して云く仏より真言・印を略して法華経と大日経と理同事勝の義之有りといわば此の事何れの経文ぞや文証の所出を知らず我意の浮言ならば之を用ゆ可からず若し経家・訳者より之を略すといわば仏説に於ては何ぞ理同事勝の釈を作る可きや法華経と大日経とは全躰斉等なり能く能く子細を尋ぬ可きなり。

<通解>
不審していう。仏の説法のときから印と真言を略して、法華経と大日経とに理同事勝の義があったというならば、このことはどの経文にあるのか。文証の出処を挙げられない、自分勝手ないい加減な言であるならば、これを用いるべきではない。もし経典を結集した者、あるいは訳者の時からこれを略したというならば、仏の説法においては理同事勝の釈を作ることがどうしてできようか。法華経と大日経とは全体が等しいということになる。よくよく子細を調べるべきである。

<解説>
そして、このことを更に掘り下げ、仏が印・真言を略したのだというなら、それは、どの経文によるのかとの問いを設け、その証拠がどこにあるかを示せないなら、自分勝手で根拠のない戯言であるから、このような説は用いるに値しない、と破されている。
また、結集者や訳者が略したものというなら、仏説の段階では理同事勝の義はなりたたないことになる、と指摘されている。

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