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脚下の固めを怠ったものは‥…

2016年04月26日 (火) 21:49
脚下の固めを怠ったも

◎桔梗の雨
「もし、どちらまで参られまする」
「はい。京まで行くつもりで」
「それは幸い、私も京まで‥……と、心がけておりまするが、こなた様は、こんどの天下を誰が取られるとお思し召されまする」
「さよう‥……」と四郎次郎は小首をかしげて、
「これは味方によりましょう。明智、羽柴、徳川、みなそれぞれ勢力は伯仲しておりまする」
「それではやはり、理のない者、義のない者が負けまするなあ」

「ーー光秀、これは、そちにはすぎた姫、そうだ今日からそちの家紋をそのまま桔梗と名を改めよ。秋の千草の中で人眼をうばう桔梗がよい」

「わしはこの眼で、尼ケ崎の千貫櫓の燃えるのを見ましたよ」
‥……
「千貫櫓とはあの二の丸の?」
「はい、光秀謀叛の知らせをうけて丹羽長秀さまと、織田信孝さまが、すぐに尼ケ崎城へ攻めてゆきました。必ず光秀に味方するものと見たのでござりましょう」

「ほんに、父御の謀叛で、何も知らぬ娘まで、たしか‥……明智の姫は、丹後の細川家へも、大和の筒井家へもおかたづきでござりましたな」

「夫婦仲など、女子と男ゆえ、一緒になったと言うに過ぎない仮りのもの、商人衆には武家の悲しさはお分りないと見えまするなあ」

「すると、細川さまが、こんどの戦で、どちらへつかれるかは、ご検討のつくご身分でござりますなあ」
「私の考えでは、明智方へつくことはござりますまい」

「はてな?」
「この女、妙な女だゾ。家来が二人倒されているのに、震えてもいないようだ」

「ホホ‥……」と不意に桔梗の方は笑った。
「よしたがよい。わらわの良人は、そなたが連れて参っても決して褒美の金は取らせぬ。かえってそなたが首を失うもととなろうぞ」
「何だとッ、おれの首をとると‥……」

嫁いでゆくと忠興はその日から桔梗を熱愛した。そのはずだった。日本西教史に「ーー容貌の美貌比倫なく、精神活発、鋭敏果決、心情高尚にして才智卓越せり」と褒めあげられている後のガラシャ夫人なのだから‥……

「人の一生とはこのように不安なものであろうか」
「不安‥……と言われると、無事に目的地へ到着なされても、仕合わせか不仕合わせか分からぬとおっしゃるのか」
「こなたには、分ると言われるか。わらわは今でも分らぬままに生きて来た。これからもおそらくは分るまい」

「お前さまは恐ろしいことをいわっしゃる。武士から義理を除いたら何が残ろう」

(自分は、どこかで、この女に心ひかれていたのではあるまいか‥……?)

「笑うてやります。それは意地でも義理でもない。弱い負け犬の、保身のための追従と笑うて首を討たれてやります」

(すでにここへも秀吉の手は及んでいる‥……)

「それゆえ痴れ者じゃと言うのでござるよ。名分立たざる戦を起こすと、盗賊の類いまでが、その名を詐(かた)って悪事を働く。それがみな、明智の仕わざとなるのでござるからの」

「明智どのは足もとの固めを怠ったと言われまするか」
「そのとおり‥……禅者の脚下照顧の訓えを忘れ、将軍宣下の勅使にこだわり、遠い大大名に誘いかけたりしてござる。光秀とはそのような尊大ぶった、空名を追う、野郎自大の一面があるお人じゃ‥……みな絵に描いた餅にすぎない。そのようなものを追いかけて、脚下の固めを怠ったものは、この淀屋の眼がねにかなわぬ。そうでござろうが、のう内儀どの」

「‥……この方はいちいち空を捨てて実をとる。このたびのことは、細川、筒井の両者を事前に味方にしておかなんだのが、明智方の大きな手落ちじゃ」
「いいえ、手落ちではのうて、これは無謀でござりました」

「と言われると、このうえ生き恥じを重ねよとか」
「言うまでもないこと。お強くならせませ」

「生き恥じになるかならぬかは、これからのこなた様が生き方で決まりまする。なあご内儀‥……殺して殺されて、は例のないことではない。応仁この方悲しく続いた乱世の姿なのだ。それゆえ、この茶屋なども、平和の光が見え次第、刀を捨てて町人になり、意味なく散った敵味方の霊を弔おうと、堅く心に決めて動いている‥……」

「泣かれませ。心ゆくまで泣いたら、せめてこなた様だけでも生き残って、何が争いの根であったか、じっと見きわめておやりなされ。意味もない争いの犠牲に散るより、それをよく見きわめて、迷うている霊を弔うのが、まことの強さとお悟りなされませ」


応仁の乱(おうにんのらん)は、室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府管領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった[1]。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した[2]。

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん)とも呼ばれる。


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