◎伊賀の竜巻
「ーーもう一団歩いているゾ。これは近江路をめざすらしい」
「ーーでは二組に分れて、べつにつけるか」
「ーーいや、もう一つの方がずっと身なりも立派で裕福らしい。それに人数も人夫らしい者が多いからの。仕事は楽だぞ」
「ーーよし、ではそっちにしろ」
「この家康がな、いちばん難儀に思うたのは、三方ケ原の戦のおりであった。そのときには、腹は空くし寒さは寒し、それに武田勢が滅法強うてな、入れ代わり立ちかわり名乗りかけては斬りかかる。しかし、わしはへこたれなんだぞ。右に左に槍をふるうて、朝から夜まで戦いつづけ、悠々と城へ戻ったときに比べたら、まだこれしきのことは難儀のうちには入らんぞ」
闇の中で、誰かがクスリと笑った。
「誰だ笑うたのは?」
「大久保忠隣でござりまする」
‥……
「ハハ‥……、そのときお館さまは、馬の上で、汚物をもらされたと父に聞きましたが」
「たわけめ、あれは糞ではのうて、焼き味噌じゃわい。ハッハッハッハ‥……だが人間、せつな糞が出るを知らずにいるほど頑張れたら大したものじゃ」
「これこれ、わらわは、この先の甲賀郡の領主、多羅尾四郎右衛門光俊が手の者だが、その方たちは、ここまで追い込んで来たわれらが獲物を横取りしたな」
「横取りとは言いがかりじゃ。われらは河内からずっと深く追うて来たもの。人に取られるが口惜しくば、なぜ前へ廻って待ち伏せぬのだ」
「‥……よし、黄金や衣類、荷駄は馬もろともその方たちにくれてやろう。刀だけをおいてゆけ。そして、道を変えて戻るのじゃ。‥……」
「斬り合うて太刀を取られた‥……」
甲斐源氏壊滅の中にあって、ただ一人生き残った幸運の人、それが穴山入道梅雪だと思うていたのに、それは、勝頼に死におくれてこうした山間で、野盗のたぐいに討たれてゆくためであったのか‥……
こんど生命をおとしてゆくのは光秀であろうか。自分であろうか。
茶屋の言うとおり、一揆と盗賊とではその性質が全く違っていた。盗賊には、盗賊冥利があったが、一揆の暴民に駆け引きはなかった。
「よいか。誰も口はさしはさむな」
(こやつら満腹しているな)
「これ、旅の侍、身ぐるみ脱げッ」
まっ先の男が、眼を血走らせて家康に吠えついた。
個々では弱気で善良な人間も集団となすと計り知れない狂暴性を発揮する。
「急くな」
「落ち着いて話してみよ。わしはよく話を聞いたうえで、その方たちへ褒美を捕らそうと言っているのだ」
「なに褒美だと‥……」
‥……結局長いあいだ忍従を強いられて来た者の劣等感にほかならない。
いずれも善良な稼ぎ人に違いない。
「いずれ、天下が治まりしだい名乗って出よ。必ず力になってやろう。今日はこの金と墨付きをつかわしておくゆえ、一揆の群れの中から三十人ほどを選んでの、道案内に立たすがよい、長谷川どの、書きもの用意を」
(これは常人のなし得ることではない!)
「ーーこれは、腹の底の底から仁慈の人!」
「ーー故右府さまに劣らぬ機略」
「非常のときには非常の覚悟がなければならぬ。この接待こそ何よりの馳走、もし余分があったらこの飯、各自に握って分けられたい」
そう言われれば、いわゆる甲賀衆と呼ばれ、伊賀衆と名づけられている地侍たちは、いずれも信長に深い怨みを抱いていた。
(それらにもし光俊の手が及んだのでは‥……)
「伊賀侍は、百姓一揆のようには行かぬで、急がねばならぬ」
そして、その出発もまた、一行を待ちうけていた危難を巧みにかわす原因になったのだ‥……
「二手にとは?」
「はい。ここにおられる柘植(つげ)さま、加賀爪さまなどのもとへ駆け込み、徳川のお館さまにお味方するよう話しましたが、半分は明智さまに味方したが得策と言い立て、この先に、お館さまの一行を待ち伏せいたしておりますので」
「なに、待ち伏せしておると?」
「この地の地侍どもは織田家に私怨がござりまする。それゆえ、ここでその怨みを晴らせ、われらの代わりに蹶起(けっき)した明智勢に荷担せよと申して譲りませぬ。‥……」
(国にも見えない柱がある‥……)
思いがけぬ信長の奇禍から、家康は再び三方ケ原以来の生命の危機に遭遇している。
あのときには遮二無二闘って生きのびたが、今度は徹頭徹尾、無力を自覚して当たったところに、生きのびる道があったような気がしてならない。
「お館さまが、わしらに優しかった、そうだ、優しかったからでござりまする」
「ほほう、なぜ勝って負けになる」
「やさしいお方を殺して、それよりひどい人に天下を取らせては、百姓どもはまた一生泣きつづけなければならねえ。やさしいお方とわかったときには、それを助けるが得策と‥……そう説いたら一揆の衆も納得しました。一揆の衆が納得するほどゆえ、侍衆も納得せぬはずはないと思うて‥……」
「へえ、そしたら、このとおり‥……お館さま、道理というは強いものでござりまするな」
「ふーむ」家康は思わずうなった。
「そうか。道理か‥……」