
◎秀吉の場合
 朝倉、浅井両氏の滅亡は信長の覇業を確定的なものにした。
 
 歯には歯を、血には血を。
 信仰という眼に見えない力を武力に振りかえて反抗してくる一向宗徒に、信長はその憎悪をたたきつける時機をつかんだのだ。
 
 「はい。ありましたとも見え、なかったとも申せます」
 「まわりくどい奴だ。それが今はなくなったのであろう。何で自害を思いとどまったか訊いているのだ」
 ……
 「はい。こればかりは、私にもわかりませぬ。ただ私がお伴いたしているうちに、お気が変わった……むろん、私が変わらせたのではござりませんが」
 
 「そちは、この信長が小谷城と浅井の領地、そっくりやると申したときに、ありがたいと言ったな」
 
 「そちは、この十八万石にコブがついているとは思わなんだか」
 「えっ!?」
 ……
 「その方はお市が嫌いか……」
 
 「それは……だ……だ……大好きでござりまする」
 
 「大好きならば、どうだ、あれをそち、貰ってくれぬか」
 
 「おん大将にはわかりませぬ。秀吉の心がみだれまする」
 
 「……そのために慢心は生じませぬまでも、世間はそうは見ますまいかと存じます。……」
 
 その信長の肉親をもらったのでは、家中の者にそねまれて、思うことも口に出せないとは、憎いほど急所をついた言葉であった。
 
 「お方さまはいただけませぬが、お方さまのお形見に、姫お一人、この秀吉と寧々に下さらぬわけには」
 「ならぬ!」
 ……
 「十八万石でも、そねまれよう、そちの為にもやらぬがよい……と、信長もいま気づいたのだ」
 
 「大人には折りおりある病じゃ、案ずるには及ばぬ」
 「と、おっしゃると、もしや浅井備前守さまの後室に」
 
 「軍師どの」
 秀吉は半兵衛が近づくと、
 「人間には持って生まれた位というものがあるようだの」
 ……
 「それは分った。おぬしの言うようにするが、位負けするようでは、その人の芽もそれまで、それ以後は伸びられまい」
 
 いかなるときにも人を人とも思わぬ点は信長につぐ秀吉だった。……信長のは内にきびしい叛骨の意志がむき出しになっているのに、秀吉のは巧まない明るさで、あとに反感を止めなかった。……佐吉に言われるまでもなく、秀吉の変わり方は、半兵衛の眼に先に映っている。
 (男というはおかしなものだ……)
 秀吉ほどの自信家が、女性の美にはひとたまりもない。……そこに秀吉の生涯を決定する危機と罠とがかくされているようだった。
 
 今の心境を、側に女性のいないゆえと割り切られたのではたまらなく不満であった。
 「ーー半兵衛、これはおぬしに分からぬことだ。口を出すな」
 そういってやりたいのが本心なのに、あいまいな笑いにまぎらすというのは、どこかで半兵衛に圧倒されているのかも知れない。
 (おれは、卑屈で気が弱すぎる)
 
 そう言えば、彼が木下の姓を羽柴と改めたのにも同じ悔いがなくもなかった。
 
 丹羽長秀の誠忠と、柴田勝家の武勇にあやかって、丹羽の羽と、柴田の柴をとって羽柴とした。
 
 (半兵衛め、何かたくらみおったな)
 
 京極、浅井……そしていまは自分が所領する身になったのだ。
 
 「……その条件は父の仇を報じて下さるならば……」
 
 (半兵衛め、やはり企みおったのだ……)
 
 お市の方を浅井家の後家といった魂胆がはじめて分かった。そう言えば浅井氏は京極家の家老にすぎなかったのだ……
 
 「ところが、ちと余裕ができると、わが生命だけでは満足せずに、子を孫を未来まで生かそうと盲目の意志が働きまする」
 
 「それゆえ、色恋は、できるときに、大威張りでなされませ」
 
 「……身も魂も亡夫を去らぬうつ蝉のような女子と、殿にひたすら感謝している女子と、二人あったらいずれを取るか。盲目の意志の働きゆえ……やはり絶えざる分別が……」
 
 月も入ろやれ山の端に
 はなればなれの浮き雲見れば
 あすの別れもあのごとし
 思い染めたよ濃い紫の
 
 (これが殿……これが男なのだ……)
 
 「どうじゃ、この秀吉が、弟御を岐阜のおん大将に推挙しようか」
 
 「小谷の城へ住まうとは……?」
 言いかけて、姫ははじめてその意味をさとったらしく、ポーッと耳朶(みみたぶ)までまっ赤にそめてうつむいた。
 
 「……落日の夕映えを賞(め)ずるより、暁の美しさを賞すべきだった」
 ……
 「わからぬとは言わさぬ。おぬしの忠告が、秀吉の肝に銘じたのだ」
 「夕映えより朝焼けとおっしゃいましたな」
 「さよう。滅んだ家臣よりも、残ってあった主家だ」