◎双鶴図
織田信長が、斎藤竜興を伊勢の長島に迫ってここに移り、移ると同時に名を「岐阜」と改めた。
「ーーそのためにはまず町を富ませなければ」
「姫、よう来られた。これへ」
「よいか、必ず油断なく婿を見張れよ、あやしい気ぶりがあったらすぐに知らせ」
「織田家は……平氏の末、松平家は源氏なそうな。昔、源平はよく争いました。長い間の敵味方で。そして、今の京の将軍足利氏、これは源氏。よいかや姫」
「はい」
「これは他言はなりませぬぞ。その源氏の将軍が、すでに世を治める力をなくしている。こんどそれにとって代わるは平氏……と、これが姫のお父上のお考え」
「お分かりであろうの。ご自分に伝えられぬ秘書まで、わざわざ家康さまにお伝えなされる、姫のお父上のひろいお心が。こうして源平心をあわせて仲よう世のしずめになろうという両家の約束。それゆえ、その約束を破ろうとする者が、万一家臣の中にあったりしては、それこそ両家の一大事。そのようなときには、付き人の手を経て、すぐにこの城へ知らせねばなりませぬ」
信長の末の妹、市姫は、絶世の容色とたたえられながら、いま近江の浅井家に嫁ぐ日を待っていたし、武田信玄の二男勝頼のもとへは、信長の姪、遠山勘太郎の娘がすでに嫁がせられていた。
「ハハハハ、それゆえ家康はこの鯉を見るたび信長がことを想い出す。鯉に間違いなきようの心遣いは、期せずして織田家への心遣いになってゆく。もう一度鯉を見よ。これこそが家康が心につける大目付……ハッハッハッハッ、そら、大目付、大きな眼玉をくるりとまわしてござるわい」
「ゆるい動きの水とはいうはの、いかにも歯痒く見ゆるものじゃ。が、その水も同気相求めて集まると、やがて滝にも奔流にもなるものじゃ。慶琢、いそぐまいのう、ゆっくりと大きな河になってゆこうぞ」
「予はこれからも急ぎはせぬ。が、また寸時もとどまらぬ」
「今日はこれまで。まだ洩らすな、人事を」
(気の毒な女……)
なぜ自分という男の志を知ろうとしてくれないのか……
家康はすでにそのころ、自分の生涯をこの小城で終わろうとは思っていなかった。
信長は美濃を制してひそかに密勅の下るように画策しだしている。
「今は天下に騒乱うちつづき、寝食の安らかならざる者、巷にあふれている時じゃ。そうした時に、この家康ひとり口腹の欲をみたして済むと思うか。諸用を節して、一時も早く泰平の世を招くための代(しろ)にする。よいか、無用な労りは相ならぬぞ」
◎女鷲の城
徳川の姓は新田源氏の中にあり、徳の字は用いず得川と称した。家康は、松平家の祖、太郎左衛門親氏(徳阿弥)をその後胤と認め、改めて徳川としたのであった。
得川氏の得をかくしたものとして、そのかくした徳を取ることとしたことのほかに、まだ明かし得ない構想が家康の胸の中にはいっぱいに詰まっていた。
徳をもってやがて天下を制さんとする希いと、源氏と称していて、信長にもし万一の事あるときは取って代わって号令する用意と。
徳川左京区大夫源家康
◎春雷
「殿は曳馬野の城を、浜松城と改名なさるおつもりじゃげな」
「姫の体が折れるほど抱いてやろう」
あらあらしく膝をついて肩の上からぎゅっと両手を締めてゆくと、
「ああ」と、姫は悲鳴をあげて上半身をもたせて来た。
「痛くはないか」
「ええ」
「これでもか、これでも参ったと言わぬか」
「よしッ。ではこうしてやる」
◎梅の新城
「殿は、これで、もはや城は取られませぬか。お子をおかねばならぬ城は岡崎だけでたくさんでござりまするか」
「御意、先殿に殿というお子がおわせばこそ、ここで浜名湖も眺められる道理、駿府の氏真に、よい兄弟があられたらまだまだ滅んでおりますまい。が殿、今までのような女子の近づけ方は愚かすぎる」
「男の玩具に生まれて来ているのではない」
「殿はそうではなかったと思し召しまするか。殿の算盤のお手のついた女子の、だれが仕合わせになられましたぞ」
「ふーむ」
「みな心を傷つけられて去ってゆく。そのことはいちばん殿がよくご存じ」
「殿! その労ろうと思し召す……それが実はむごい遊びとお心づきなされませぬか。もっと非情におなりなされませ」
「なに、情をかけるなと」
「御意。女子というはわが子を産んで、それが健やかに育ててゆくが最上の望み。当人が気づこうと否とではござりませぬ。天地自然の理は人の情では動きませぬぞ」
「殿もおかしなお人じゃ。そのあたりに立っている松をよくご覧なされ。この城をご覧なされ、根があり、土台があればこそ枝も張れば、梢も鳴る。人の情で松が立っているものか」
「子を産ませておやりなされ。それを健やかに育てられるように計らっておやりなされ。それが、天地の性根。口舌の労りなど、まことの労りではござりませぬ」
「……こうしてじょじょに根を張りながら、色恋に費やす無駄をおやめなされと申しているので」
「男には女子と違う苦心がある。その心遣いをあやまると、予だけではない。そなたたちから一族の生命すべてにかかわる大事になるやも知れぬ。それゆえ男の思案の邪魔はすまいぞ」
そうなるとふしぎに祖父や父の挫折の原因が想われた。
(そうか、その備えもなければならぬか)
あり余った若さのはけ口を、いたずらな色恋に費やして過ごすのは、たしかに不用意のひとつと言えよう。
(お万だけでは足りぬかも知れぬ)
「誰が命じて、その銚子を持って参った」
「一汁三菜、それも戦場を忘れては相ならぬ。民百姓がなにを食べているか存じておるか」
「お愛と申したな」
「はい」
「そちも、予の側で仕えぬか。いや、今すぐにとは言わぬ、まだ討ち死にした良人のことが念頭をはなれまい。予が上京して戻ったあとで返答せよ。さ、何をうつむいている。代わりを盛れ。代わりを……」
その言い方があまりにも唐突だったので、お愛はおろおろと盆を出し、お万はきょとんとして家康を見やっていた。
家康はその視線の中で、ゆっくりと口のなかの飯をそしゃくした。
(葦かびの巻 了)
2015.10.10