【池田大作全集33巻より】
佐渡御書で大聖人は、転重軽受の経文を引用され、今世の苦報の代表的なものとして、「八種の苦悩」を挙げられています。
(1)或被軽易(わくいきょうい)
軽(かろ)んじられること
(2)或形状醜陋 (わくぎょうじょうしょうる)
姿、形が醜いこと
(3)衣服不足(えふくふそく)
衣服が不足すること
(4)飲食鼠疎(おんじきそそ)
飲食物が粗末で不足すること
(5)求財不利(ぐざいふり)
財産を求めても利益(りやく)が得られないこと
(6)生貧賤家(しょうひんせんけ)
貧しく賤(いや)しい家に生まれること
(7)及邪見家(ぎゅうじゃけんけ)
誤った思想・宗教の家に生まれる生まれること
(8)或遭王難(わくぞうおうなん)
権力の迫害に遭うこと
「我人を軽(かろ)しめば還(かえっ)て我身人に軽易(きょうい)せられん」
「高山に登る者は必ず下り」
「此(この)八種は尽未来歳(じんみらいさい)が間一(ひとつ)づつこそ現ずべかりし」
爾前権経の因果の限界……長遠な期間にわたって業を清算しようとしても、現実には、その間にまた新たな悪業を積んでしまう恐れもある。
結局、「常の因果」(過去の謗法)=因果応報では、宿命転換の原理は成り立たないのです。大聖人の仏法は、そうした因果ではないとはっきり仰せです。
日蓮が受けている八種の報いは、…法華経の行者を過去に軽んじたからであり、……宝玉と宝玉をつらねたように尊い法華経を、ある場合は深遠すぎて、と持ち上げ、ある場合は見下して嘲笑ったために、この八種の大難にあっているのである。
佐渡御書960ページ
日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食〓疎五には求財不利六には生貧賤家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり
『法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり』
今日は奥さんの誕生日でしたので、昼は二人で和食を食べに行きました。
娘のことで妻に言いました。
「娘がお父さん毛嫌いしているのは、お父さんを除け者にしているのと同じ。それは苛めと同じ。どんな理由があるとしても、それは必ず自分に帰ってくるから娘に良く言っておくように。お父さんを立てられないでは、どんなバイトや仕事でも学会の中でも、絶対にうまくいかない。お父さんを苛めたやつらは全部洩れなく落ちていった。どんなに大きい関与先でも全部おかしくなっていったから」
今私達が唱えている日寛上人の曼荼羅の左下あたりに「八大涅槃」と認(したた)められてあります。私は題目をあげていて「これは何かな」「どういう意味かな」とずっと今までわかりませんでした。教学事典などにも載っていません。
これがやっとわかりました。信心をしているが故に、折伏したが故に、法戦で戦ったが故に、八種の大難が一度に起こるということですね。「軽んじられる」とは苛めにあったり、除け者にされたり、孤独や淋しさや苦痛を感じることであり、また、「権力の迫害に遭う」というのは「関与先に切られる」ということにもなると思います。
「先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり」
「八種の苦悩」を御本尊にぶつけていくことだと思います。
“煩悶のための煩悶”ではない。
宿業は必ず転換できる。