朝ドラの「マッサン」。
「マッサンとリタ」を読み、私自身のことと重なる点が多く、考えさせられました。
マッサンと私を重ねてレポートしました。
暇なときに一読して戴ければ大変有り難いです。
マッサンとリタ
ジャパニーズ・ウィスキーの誕生
◎はじめに
竹鶴政孝は、これら新施設の完成を見届けるようにして、1979(昭和54)年に85歳の生涯を閉じた。
リタの最愛の令息、竹嶋威氏に捧ぐ
◎ウィスキー修業時代
リタは…借金を抱えた医師の父親を亡くし、手に職のない自分のような娘には、結婚に人生の活路を見出すしかないという現実は、はっきりと自覚していた。
ーー我が娘と重なる!!
仕事ができない、人の中でうまくやっていけない、社会に適合できない娘……結婚に人生の活路を見出だすのも一つかもしれない。しかし、その前にあの性格は治してやらないと……(/_;)/~~
◎寿屋勤務時代
日本の洋酒市場は当時とても狭く、イミテーション洋酒の独壇場……果たして……買い手がつくのか……この問題が常に付いて回った。……竹鶴の夢は、…幾多の試練にさらされながら紆余曲折した経緯を辿ってゆくことになる。だが、彼はこの夢を決して諦めなかった。そして、人生を洋酒一筋に捧げたからこそ、その夢は達成されたが、それは想像を遥かに越えた険しい道のりであった。
ーー私の上海とも重なる!
「上海」の「税務市場」は「今」とても狭く、 「大手税理士法人」の独壇場……果たして……どれだけの「お客さん」がつくのか……この問題が常に付いて「回っている!」……「猿渡」の夢は、…幾多の試練……紆余曲折……だが…夢を決して諦めなかった……想像を遥かに越えた険しい道のりであった。
その頃、竹鶴の胸中には、寿屋のウイスキー蒸留技師として自分の人生は順風満帆であるといった思いがあったかもしれない。だが、実際、彼の前途に待ち受けていたものは、まだ予測のつかない新たな挫折であった。
ーーその頃、「猿渡」の胸中には、「税理士」として自分の人生は順風満帆であるといった思いがあったかもしれない。だが、実際、彼の前途に待ち受けていたものは、まだ予測のつかない新たな挫折であった(*_*)
今日の夕飯時ーー
妻「軽躁病はまだ治ってないかも」
私「実の成る木をまた書いたら即入院かも!」
竹鶴は…スコットランド流製法は、資金がかかりすぎる…と、ようやく理解した。鳥井にとって、竹鶴の存在自体が今や贅沢品となってしまった。
「猿渡」は…「人の三倍努力法」は、資金がかかりすぎる…と、ようやく理解した。「妻」にとって、「夫」の存在自体が今や贅沢品となってしまった。 (-.-)
◎起業家時代
戦争になれば、もちろん外国からウィスキーは輸入されない。それは、ようやく歩き始めた竹鶴のウィスキー事業にとって、ある意味では好都合であった。結局、日本の洋酒市場はサントリーとニッカの独壇場となり、これら、二社は、軍隊で将校が飲む酒の本命はわが社の製品、との謳い文句で営業を拡大していった。
晩年のリタのノートの中に…
昔の私には勇気があった
昔の私は大胆だった
昔の私はきれいだった
少なくとも人はそう言ってくれる
でも今
また若くなりたいとは思わない
年をとるのも悪くない
幸せを感じていたい
ただ、それだけ
ウィスキー蒸留とブレンデイングに関しては他に並ぶ者のない技術・知識を誇った竹鶴も、事業経営者として必ずしも万能であったとは言い難い。彼は商人ではなかったし、営業能力に特に優れていたとも言えなかった。
ーー「低料金の記帳代行と低価格の個人確定申告」に関しては他に並ぶ者のない技術・知識を誇った「猿渡」も、事業経営者として必ずしも万能であったとは言い難い。彼は商人ではなかったし、営業能力に特に優れていたとも言えなかった。
◎挑戦、そして成功
リタ
「老いていくのは孤独なことだけれど、自分の人生は自分でつくってきたのだというこちを忘れたくないわ」
スコットランドで過ごした1919年と1920年は、竹鶴にとって一つの信念を確立する時期でもあった。……「小さい方がよいこともある」……ウィスキー製造の規模が大きくなりすぎてしまうことに対する彼の懸念を読み取ることができる。晩年の二十年、確かにニッカは成長し大きな繁栄を遂げたが、竹鶴は質を犠牲にして量をとるようなことを決して喜びはしなかった。
◎訳者あとがき
「人と人の出会いに歴史の源流がある」
世界史は一つの文明が他の文明を駆逐する動態である。劣位なテクノロジーはいずれは優位なテクノロジーにとって代わられるからである。しかし「文化は融合する」。その違いはあっても優位という尺度は文化には似合わないからである。これが本書の隠されたもう一つのヴィジョンであると解釈する。
◎新刊に寄せて
多様性と需要性に象徴される内なる国際化こそ、柔軟かつ強靭な社会形成にとって必須条件であり、とりわけ現代日本が挑戦しなければならない課題の一つである。竹鶴夫妻は、その強い意志と深い慈愛をもって自らの人生に挑戦し続けた、まさに内なる国際化に向けて時代が選んだ特別の人であったかもしれない。