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改革・開放の父

2014年06月28日 (土) 23:13
改革・開放の父

今晩は!
集団的自衛権の合意内容は、すばらしく完璧!これ以上は改憲しかないーー私自身は深く感動していますが、内外ともほとんど理解されてないようで、うちの奥さんも全く分からないようで、ちょっと違う様相のようですね。

どうやら先生の日中国交回復提言や、第一次宗門問題、第二次宗門問題の時のように、あらゆるところから攻撃されながら、篩(ふるい)にかけられる時を迎えているような感じを抱いております。

先生と学会と信心から離れることの無いように、しっかりとお題目をあげていきたいと思います。

真実を言えない中国
真実を言わない日本
真実がない朝鮮半島

どうしようもない日本のマスコミ!

「平和の架け橋」(池田大作・顧明遠)を今日明日で読んでいます。


今日の聖教の「響き合う魂」に感動し、抜粋して記録しました。

周総理が反ソ路線から、「現代化」の道へ転換を図るにあたって、ソ連の国情や首脳の意向を伝えたSGI会長の役割は大きかった。

だが当時、「現代化」を実行に移すには、国内に大きな困難が立ちはだかっていた。「四人組」との戦いである。
登小平氏は生涯で3度失脚し、3度復活した。「不死鳥」と呼ばれた。小柄だが鋭い眼光から「唐辛子風味のナポレオン」、外見は柔らかいが、心に宿す固い信念から「綿中に針を蔵す」と言われた。

SGI会長との会見は、「2度目の復活」の折りに実現したものである。
66年、文化大革命の中、「走資派」(資本主義に走る半革命分子)と攻撃され、軟禁状態に置かれるが、73年3月、混乱収拾のため、群を抜く実務能力を必要とされ、北京に呼び戻される。
復活に尽力したのは、周総理であった。
76年1月、周総理が死去。…同年9月に毛沢東が死去すると、翌月に四人組が逮捕・失脚。77年8月、登氏は副総理に復帰し、3度目の復活を果たすのである。

ーー大中国と創価学会という小さな団体立場も次元も違いますが、私たちも、あらゆるところから攻撃されながら困難を乗り越えてきましたーー。

登氏
「皆さんは、大変な事態や危惧を克服して、これほどまでに大きく運動を進めてこられた。これは、容易なことではなかったと思います」
その目は、砲火をくぐり、弾圧を忍び、戦い続けた勇者だけがもつ鋭い光を放っていた。


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