Contents
RSS 2.0

ブログ blog page

緑のパンフレット

2014年02月25日 (火) 23:45
緑のパンフレット

25 人が提案し、神が処理する
アブドウラ・シュートは、わたしのために送別会を開いてくれた。

「インド人の選挙権問題」
…ナタル州立法議会の議員を選挙する権利を、インド人から奪い取ってしまうことを提案したものだった。

「そんなことが、なんで私どもにわかるものですか。私どもにわかることは、私どもの商売に関係したことだけです」

「この法案が通過して法律になると、私たちの運命は、全くむずかしくなりますよ。これで、私たちの柩(ひつぎ)に最初の釘が打ち込まれました。それは、私たちの自尊心の根元に一撃を加えてきたものです」

客たち
「何をしたらよいのか、お聞かせください。あなたはこの船でお帰りになるのをやめて、あと一カ月ここにいてください。そうすれば、あなたの指導するように、私たちは闘いましょう」

十四日間に、一万人の署名が請願書に集められた。

『ザ・タイムズ・オブ・インデイア』紙は、…インド人の要求に強い支持を表明した。…ロンドンの『ザ・タイムズ』紙は、私たちの要求を支持してくれた。こうして私たちは、法案の不成立に希望を持ち始めた。

26 ナタル・インド人会議
そして私たちは、常設的な大衆組織を持とう、ということを決定した。こうして、五月二十二日にナタル・インド人会議が誕生した。

不熟練賃金労働者、契約農業労働者は、まだ枠外にとどまっていた。

そのとき、ぼろぼろに破れた着物を着て、手に帽子を持ち、前歯二本は折れ、口から血が流れている一人のタミール人が、ふるえ、すすり泣きながら、わたしの前に現れた。

わたしは、労働契約法に関する法律を読んだ。それによると、もし普通の下僕なら、彼が通告を怠って職務から離れると、彼の雇用主から民事法廷に訴えられる。それが契約労働者になると、全く話が違ってきて、同じ状況であっても、彼の場合は刑事法廷に訴えられ、そして有罪と判決されて投獄されるのである。これが、サー・ウィリアム・ハンターが、契約労働制度を奴隷制度に等しいと呼んだ理由であった。奴隷に似て、契約労働者は雇用主の財産にすぎなかった。

27 三ポンド税
一八六〇年ごろ、ナタルにいたヨーロッパ人は、そこに砂糖きびの栽培に適した土地がたくさんあることを発見したが、労働力の不足に苦しんだ。ナタルのズールー族は、この型の労働には適していなかったので、外部から労働者を入れないかぎり、砂糖きびの栽培や砂糖の精製は不可能だった。そこでナタル政府は、このことをインド政府に連絡した結果、インド人労働者募集の許可を受けた。

インド人は、彼らに期待されたもの以上を与えた。…彼らに続いて、インドから商人がやって来て、商業を営みながらそこに定住した。その皮切りをなした人がシェート・アブバカル・アッモッドであった。彼はまもなく、手広く事業をするようになった。

これには、白人の商人どもがあわてた。…彼らは、インド人の商業的才腕を念頭に置かなかった。彼らは独立の農業者を受け入れることはできても、商売上の競争者となると我慢できなかった。

インド総督は、二五ポンドの課税は承認しなかったが、年額三ポンドの人頭税の課税には賛成した。そのときわたしは、これは重大な総督側の失策である、と思った。…一家族を四人として…一年間一二ポンドの税金を徴収することは、夫の収入の平均が一カ月に一四シリング以上を越えたということなし、という場合には、まさに殺人的であって、世界じゅうどこをさがしても例のないことだった。

私たちは、この課税に対して猛烈な反対運動を組織した。

28 インドにて
南アフリカの状態に関するパンフレットを書く準備を始めた。後に「緑のパンフレット」として知られるようになった。

それを第一に論評したのは、『パイオニア』紙であった。

それは、ナタルでインド人がこうむっていた扱いを、わたしの筆によって描写されたものの縮図であり、誇張したものであり、わたしの言葉をそのままのものではなかった。…そうこうしているうちに、有名な新聞はこぞって、この問題を詳細に論評した。

パンフレットをポストに入れることまでが、容易なことではなかった。…わたしは近所の子供を全部集めて、彼らが学校へ行かない午前中二、三時間、手伝ってくれないかと頼んだ。彼らは、喜んで手伝ってくれることになった。

サー・フェロズシャー・メータ
「ガンジー君、わたしは、きっと君を応援しましょう。ぜひここで集会を開きたい」

ロカマニア・テイラク
「…しかし君は、どの党派にも属さない人物を、今度の集会の議長に選ばなくてはなりません。バンダルカル教授にお会いなさい…」

つぎにわたしは、ゴカーレに会いに行った。

サー・フェロズシャーは、わたしから見ると、ヒマラヤ山のようであった。ロカマニアは大海のようであった。ゴカーレはガンジス河の流れのようであった。

ヒマラヤ山はのぼりがたい。そして、大海は簡単に船出することはできない。しかしガンジス河は、その胸に人をいだき寄せる。


トラックバック

トラックバックURI:

コメント

名前: 

ホームページ:

コメント:

画像認証: