21 プレトリアでの最初の一日
「夕食はここで、と申し上げてまことに申しわけございませんでした。実は、ほかのお客さまにあなたのことをお話ししまして、食堂であなたが食事されてもさしつかえないかどうかを、お尋ねしましたんです。依存はない、とみなさんがおっしゃいます。それに、みなさんは、あなたのお好きなように、いくら長くお泊まりになってもさしつかえない、とおっしゃいました、だから、よろしかったら、食堂においでください。それから、あなたのお気のすむまで、ごゆっくりなさってください」
22 キリスト教徒との接触
わたしはイエス・キリストを殉教者、犠牲の体現者、そして神聖な教師としては受け入れた。しかし、古今を通じて、最も完全であった人間としては受け入れられなかった。
「その問題を冷静に考えても、ヒンドゥ主義のような微妙で、深味のある思想、その霊魂の観照、あるいはその慈悲は、他のどの宗教にも見つからない、とわたしは信じている」
トルストイの『神の国は汝自身のうちにあり』を読んで、わたしは感動で圧倒された。それは、わたしに永遠の印象を刻みつけた。
23 インド人問題
わたしは最初の措置として、プレトリア在住のインド人全体の集会を開いて、彼らにトランスヴァールのインド人の事情を話して聞かせることにした。わたしは、インド人移民がなめている艱難について、関係当局に申入れを行うために、ひとつ協会を作ったらどうか、と提案した。
礼儀にかなった服装をしているか、いないかの判断は、駅長の裁量にまかされているからであった。
トランスヴァールに入るとき、すべてのインド人は、入国料として人頭税三ポンドずつ…土地を所有するにしても、彼らのためとして指定された地域以外には土地を持つことは不可能であった。そして実際には、それも所有というものではなかった。彼らにはなんら特権はなかった。
インド人は白人用の歩道を歩くことを許されなかった。そして午後九時過ぎには、通行証を持たずに戸外に出ることを許されなかった。
「もし巡査に見つけられてわたしがつかまったら、どうしよう」
…召使いにそれを発行できるのは、その召使いの主人のみに限られていた。
わたしは、南アフリカという国は、自尊心の強いインド人の来るべき国でないことを知った。そしてわたしの心は、いよいよもって、どのようにしたらこの現状が改善されるのか、その問題でいっぱいになった。
24 訴訟事件
わたしは、ダダ・アブドウラの訴訟事件の事実調査をしてみて、アブドウラの立場が非常に強固なもので、法は必ず彼の側にあることを知った。…しかしわたしはまた、このうえ訴訟が長引けば、原告も被告もともに破産してしまうことを知った。この両者は親戚同士であって、しかも同じ市の出身であった。
わたしは、この職業に愛想をつきそうになった。…当事者間の費用には、一定の費用標準というものが許されてあった。しかも顧問弁護人と依頼人との間に実際にかかった費用の方が、それよりずっと高かった。それにはわたしは我慢がならなかった。わたしは、当事者同士を仲直りさせ、彼らを結び合わせることこそ、わたしの仕事だと思った。
しかも南アフリカにいるボンバンダル出身のミーマン人の間には、破産するより死を選ぶべし、という不文律があった。
…残されたのは、一つの方法だけであった。すなわち、ダダ・アブドウラが、寛大な割賦支払いを彼に許すことである。彼はなかなか賛成しなかった。が、結局、シェート・タイブに、非常に長期にわたる年賦支払いを許したのだった。
私にとっては、この年賦支払いの譲歩にまでこぎつけることは、双方の当事者を仲裁に同意させることよりも、ずっと苦労なことであった。しかし双方ともその結末を喜んでくれた。そして双方とも世間の評判は前より高くなった。わたしの喜びは限りないものであった。
これでわたしは、真の法の実践ということが、どんなものであるかを習得した。人間性のよい面を発見し、人間の心の中に入り込むことを覚えた。わたしは、法律家の真の任務が、離ればなれにかけ違った事件を結合させることにあることを悟った。
…それから二十年間…その大部分を、多数の訴訟事件に自主的な和解を講ずることに費やした。わたしは、そのために失ったものはなかった。一銭のお金も、ましてわたしの魂においてをや、である。