第五章 私の「水行十日陸行一月」論
●「邪馬台国」筑後山門説
江戸時代の本居宣長は山門郡説を唱えている。
明治では星野亘氏
すなわち卑弥呼を一女酋とする観点から、
「『日本書記』の神功記において、神功皇后に討伐された田油津媛の先代が卑弥呼である。その田油津媛が居住した山門郡つまり筑後国の山門郡こそ邪馬台国である」
後漢末より(魏・呉・蜀)の三国時代にわたって、九州全島はニ大国に分裂し、北部は女王国の所領、南部は狗奴国の版図として、相対峙して久しく相譲らぬ形成を成していたのである。……魏の正始八年(二四七年)に女王国と狗奴国との間に戦闘が起こり、女王卑弥呼はこの乱中に没し、戦争は女王国の敗北に終わったと察しられる。
しかし狗奴国が邪馬台国を踏みにじることはなかった。『魏志倭人伝』にはその後の邪馬台国が、新女王一与を立てて治まったと書いてある。
倭にしても狗奴にしても、戦いという極限行為の中に残忍さが見られない。
山門郡やその周辺部で、弥生の製鉄所兼鍛冶屋だったタタラ遺跡が出土しているのは、…帰国した生口(留学生)の力が大きく寄与したものだろう。
日本書記(七二〇年)
「(新功皇后が)山門県に転至まして、則ち土蜘蛛田油津媛を誅う」
延喜式(九二七年)
「山門五郷、大江、鷹尾、草壁、大神」
和名抄
山門郷 夜万止(やまと)と訓む
●水行十日陸行一月の解明
「いくら弥生時代末期でも、日数がかかりすぎる」
「弥生のころは山裾道を通ったのですよ」
清少納言『枕草子』
「遠くて近きものは極楽、船旅、男女の仲」
万葉集
「月夜(つくよ)よし 可音(かはと)清(さや)けし いざここに 行くも去(ゆ)かぬも 遊びて行くかむ」
ー大伴四綱ー
筑後川や矢部川沿岸部の地名を見て、現在は内陸部にある土地だのに、と不思議な気がすることが二つある。
一つは、水とはまったく無縁の土地に、船着き場を表す江・津・浦の地名がついた所が多い。
もう一つは、陸地の一部であるのに「島」の地名がついた所が多い。
現在でも平均5・5メートルという、有明海の干満潮差。川を遡行するときは満ち潮に乗り、逆に下るときは干き潮に乗るが、実際に動けるのはやはり一日に二時間だったろう。
渡辺村男氏(大正元年)『邪馬台国探見記』
「天正慶長年間(一五七三年〜一五九六年)筑後国主・田中吉政公が矢部川流域を改修せらるる以前は、三池黒崎の鼻(現・大牟田市黒崎)より海路をさかにぼりて瀬高の上ノ庄に到着するには七潮を要した」
干満は日に二回ある。昼間の満潮だけを使えば、なんと七日も費やしたことのなろう。
『魏志倭人伝』
「倭の地を参問するに、海中州島の上に絶在し、或いは絶え、或いは連なり」
現在の筑後は平野部は都市と見渡す限り拓かれた田畑である。国鉄のレールが敷かれ、道路は縦横に走り、九州縦貫自動車道が通っている。しかし、明治の末まで、主要交通路線は海と川をだった。わずか七、八十年前でもそうだ。
日本書記
「水沼県主猿大海奏してもうさく、女神あり八女津媛という。常に山中に居る。故れ八女国名はこれにより起これり」
第六章 邪馬台国はこんな国だった
古墳時代の山門人には、中国の江南地方の血も影響を及ぼしているようだ。旧石器人自体が、地つづきだった中国の江南からやってきたのかもしれない。そうではなく、縄文・弥生のころ、江南人が船で移ってきたのかもしれない。黒潮が有明海に流れ込んでいるのは、長崎海洋気象台の調べでもはっきりしている。
古文書『南筑明覧』
黒崎の鼻とは、矢部川河口に位置する大牟田市黒崎のことだ。日向神社は有明海から直線距離にして二十数キロの内陸部にある。そこから潮を得るために、猿が海まで出てきていたという。猿とは動物ではなく、猿という名の人間であろう。天孫降臨を中村に迎えた男も猿田彦であった。
第七章 古代の天体観測と卑弥呼の墓
「毎日(めいにち)、暗かうちからなんしよりめすか」
「日の出ば、見よるたんも」
「あんたのしよりめすこつあ、私どもには解らんばんも」
猿田彦は山門勢力、つまり海洋民族の一族だったのではなかろうか。
矢部川上流、日向の奥地にいた天孫族は、海洋民族であり先住民だった猿族に潮を運んでもらっていたということにはなるまいか。
第八章 聖域を物語る女山の神籠石
「昔は女王山と呼ばれとったばってん、天子様に憚るちゅういうて、女山になったちゅう」
第九章 神話と古代の神々たち
「寒くなると、つまり秋から冬にかけては、河童は山に入って山童となる。春から夏にかけては、それが川や産みに下って河童、海童になる」
法華経十二番
「すみやか仏法を得る。ありやなしや。文殊師利曰く、あり。娑褐羅竜王の女、年初めて八歳なり」
『あとがき』
大和朝廷にとって、北九州の出身であるのを隠したくなった、理由はなにか。
五二七年に起きた「磐井の反乱」
中国やヨーロッパの皇帝とか国王と、日本の天皇の相違。
日本の天皇は祭り上げられるのである。もうお解りだろう。『魏志倭人伝』には、諸国王に選ばれて卑弥呼が倭王に祭り上げられたとある。
それだけではない。卑弥呼の後、男王を立てたが、国内が乱れたので、卑弥呼の宗女一与を、やはり諸国王が祭り上げている。この邪馬台国連合のやり方が、大和朝廷に引き継がれたのだ。
大和朝廷は朝鮮半島に六万の兵を送ろうとして、九州に行かせた。それを、筑紫の国造磐井が叩いた。
『日本書記』のよると、一年半に及ぶ。
「旗鼓相望み、埃塵相接(つ)げり。機(はかりご)を両陣の間に決めて、万死の地を避けず」
の激戦が始まった。
磐井も天皇同様、山門郡に発した邪馬台国王の血統を引く人間だった。
磐井は継体天皇の即位に怒った。本来ならば、磐井が天皇となるところだったからだ。
磐井は敗れた。大和朝廷にとっても、しかし勝利は喜べなかった。…本家を倒したのだから……。そこで、大和朝廷は北九州とは無縁である。とする事実の歪曲を行った。それでも、真実を百パーセントねじ曲げるのは不可能だった。
磐井の潰滅によって、邪馬台国の勢力が根絶やしになったわけではなかった。
古代の水行コースに大宰府を設けたのは、邪馬台国勢力の台頭監視と鎮圧のためであったろう。
磐井の反乱から百三十四年後、斎明天皇が朝倉宮で死んだのも、『日本書記』を見ると、宮中に鬼火が現れ、近侍がそのために数多く病死したりした後である。どう割り引いても、暗殺としかいえない変死である。
この不穏な状況がつづいたから、大宰府が置かれたに相違ない。
その後、史書には八五五年「筑紫の浪人を検束」。
邪馬台国勢力の一大粛清だったのであろう。十中八九、この弾圧の原動力になったのは、大宰府だったと思われる。
この八五五年、野にあった邪馬台国勢力は完全に力を失った。これをキッカケにして、「邪馬台国」は日本の歴史の中でまぼろしとなってしまったのである。
●クラゲナス タダヨエル国
『古事記』や『日本書記』に、日本の国のはじめをこのように表現。
(潟地で土地が固まらずクラゲのようにふあふあした土地)
満潮になれば島や洲の数が減り、島や洲一つ一つの広さもぐっとせばまる。干潮になると島や洲がぐっとふえ、そして広くなる。