第四章 「通行証」と「七支刀」の謎
●魏の公用旅行証明書
藤の尾遺跡で
「こりゃあ、なんじゃろうか」
「齊○○○十一月六日」
「そうだ、もしかすると」
魏に齊王という帝王がいた。
二四〇年から二五三年まで在位。
児玉幸多編「日本史年表」に、二四五年に魏の齊王が倭国使に物を下賜したと、載っている。邪馬台国女王卑弥呼は、二四〇〜二四八年に死んだとされている。
私はこれを石製のパスポート、つまり通行証と判断した。
投馬国政府や邪馬台国政府は、あらかじめ魏政府から対照用通行証の下付を受けていたに違いない。
「私は帯方郡から参りました魏の使いでございます。邪馬台国へ行く途中です」
「遠路はるばるご苦労さまでございます。必要なことがございましたら、なんなりとお申し付け下さい」
「倭の人々は礼儀正しく、争いごとも少なく、君子の国だ」
●七支刀は魏王の下賜品か
奈良県天理市に石上神社「イソノカミ」
「七支刀」(ななつさやのたち)
当時の日本は朝鮮半島の百済を支援していた。『百済記』によると、三六七年には日本は百済と共同して新羅を討った。三六九年にはまた軍を送り、北の高句麗軍の侵攻に苦しむ百済を元気づけた。その二年後には高句麗の都平壌に攻め込み、高句麗王を戦死させたのである。
百済の王は日本に感謝し、三六二年に七支刀と七支鏡を日本王に贈った。
瀬高町大字大神字長島(おさじま)
七軒の民家に守られるように
「こうやの宮」がある。
手に鏡を持った乙姫、
服装が中国風と受け取れる武神、
注意深くその刀を見ていただきたい。お解りであろう。まぎれもなく七支刀である。