荒木 村重(あらき むらしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。利休十哲の1人である。幼名を十二郎、後に弥介(または弥助)。荒木氏は波多野氏の一族とされ[1]、先祖は藤原秀郷である。
池田・織田家臣時代
天文4年(1535年)、摂津池田城主である摂津池田家の家臣・荒木信濃守義村(異説として荒木高村)の嫡男として池田(現:大阪府池田市)に生まれる。最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り一族衆となる。しかし三好三人衆の調略に乗り池田知正と共に三好家に寝返り知正に勝正を追放させると混乱に乗じ池田家を掌握する。
その後、織田信長からその性格を気に入られて三好家から織田家に移ることを許され、天正元年(1573年)に茨木城主となった。同年、信長が足利義昭を攻めた時に信長を迎え入れ、若江城の戦いで功を挙げた。
天正2年(1574年)11月5日に摂津国国人である伊丹氏の支配する伊丹城を落とし、伊丹城主となり、摂津一国を任された。
その後も信長に従い石山合戦(高屋城の戦い、天王寺の戦い)、紀州征伐など各地を転戦し、武功を挙げた。