播磨戦国史
第三章 鳴動する大地
一
ーーいや、ボンクラどもは目をそむけているだけだ。
「官兵衛殿、筑前殿を助けてその日を待つべし。岐阜殿が倒れるその日を」
「何を申すか、官兵衛殿。坊主の修行なんの役にも立たぬことなど、御辺は百も承知であろう。だがわしは清僧。わしが岐阜殿を恐れのない眼で見ることができるのはそのおかげじゃ」
二
「官兵衛はん、女に振られはったんか」
「羽柴の手先になって鼠みたいに走りまわるというんか。羽柴は誰の家来じゃ。信長の家来やろ。あんたはんのやろうとしていることは、けっきょく織田の手先になるということや」
三
「運がいい奴はその運に頼らないものですよ」
「官兵衛と荒木殿との連絡は全てわしを通して行われるはずだが」
「婿殿、この左京亮の許しもなく別所家と交渉するとはいかなる了見だ」
「播磨は衆徒の国。それを忘れては、この国は立ちいかぬはず。衆徒の本分は合議詮議。よって播磨の行く末は国人衆みな集ったこの会盟にかかっており申す」
「織田殿に差し出す人質は、これなる小寺(黒田)官兵衛の子、松寿(しょうじゅ)とする」
「なぜ孫衛門の子ではないのだ」
四
「おやじ殿、一番大切なのは、播磨のボンクラどもに、この官兵衛がどれほどのいくさができるのか、見せつけることです。見せつけぬことには、この播磨をあやつれませぬ。ボンクラどもに二度と『小才子野郎』とは言わせませぬよ、おやじ殿」
「松明を乱すな」
「こちらの方から攻めかかるんだ。今夜中に毛利を英賀(あが)から叩き出すぞ」
「安鈴、おまえ、おれに合わせる顔があるのか」
官兵衛の腕にすがった安鈴は、もはや官兵衛の為すがままだった。
「おれは琉球で何が流行っているのか知らん」
五
「安鈴の首を取ってこい。今すぐ追手を放て」
ーー秀吉とはずいぶん違うな。
別所氏に手柄を立てる機会を与えてはならなかった。
ーーなぜ召集地を平井山にしなかったのか。
「うぬが出しゃばり過ぎたせいで、別所が裏切ったのじゃ。播州平定が一からやり直しになってしもうたぞ。この落とし前、どう付けるんじゃ、この小才子野郎」
「羽柴家に人物多しといえども、真に筑前様のお役に立てるのは、官兵衛様とそれがしの二人きりです」
六
ーー別所は長くは持たぬ。
代わりに孤立したのは、播磨に進駐した羽柴軍だ。西(毛利)も東(荒木と本願寺)も敵となって身動きが取れなくなってしまった。
「だがそんなものに引っ掛かるか、あの弥助が」
「わからん」
ーー播磨兵乱の責任は官兵衛にある。彼にも言い分はあるだろうが、結果として播磨のほとんど全ての国人を毛利に寝返らせてしまったのは、官兵衛の不始末の何物でもない。よって官兵衛が自力でこの不始末を解決するまでは、その申し開きを聞く気は一切ない。
七
「敵である羽柴小一郎がシモンを殺せ、と頼んできたのだ。敵の頼みを訊く馬鹿はおるまい」
問答無用に捕らえられた官兵衛は、殺されもせずに牢に放りこまれた。官兵衛は唖然とする。
八
そのとき加兵衛様は「もうしくじるんじゃないぞ」とおっしゃっれた。おれも今度こそはしくじるまいと心を決めたよ。でも、官兵衛、人間は同じ過ちを繰り返さないほど賢くはない。人は一度やった過ちを繰り返すようにできて、いるんだよ。だからその一貫文もしくじって失ってしまった。どんなしくじりをやったのかは、いちいち手紙には書き切れない。今度会ったときに話してやる。きっと話してやるよ。
九
「せがれを返してくだされ」
「摂津守殿、ただただお願いいたす。せがれを返してくだされ」
十
ーー官兵衛、よい父親を持ったな。
ーーなんて外は寒いんだ。
一年ぶりの沙婆の空気は何と冷たいことか。
「小一郎は筑前殿のたった一人の弟なのだ」
●上月合戦 上月城主作用氏は赤松氏の一族であった。戦国時代、赤松宗家より政元を養子に迎え、政元は上月城主となった。その子政範の代に織田信長の播磨侵攻が始まり、信長の部将羽柴秀吉が司令官とする織田軍が播磨に攻めてきた。
天正五年(1577)十一月二十七日、秀吉軍は黒田孝高を先陣に政範らの拠る上月城に押し寄せた。政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は兵三千で来援させた。秀吉軍と宇喜多軍両軍の激戦八度、戦いは日没にいたって漸く終わり、敗れた宇喜多勢は上月城に入った。
秀吉は宇喜多の援軍を撃退した後、さらに城を攻略、城中では降伏を申し出たが許されず、十二月三日、城主政範は妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。秀吉軍は城内に突入ことごとく残兵の首をはねたという。
●三木合戦 別所長治が信長と交渉を持つようになったのは、天正五年からで、播磨西部の城主のほとんどが毛利に通じていたことからすれば、やはり異色の存在であったといえよう。長治は信長から中国征伐の先導を命ぜられ、総大将秀吉の下で、その期待にこたえ、秀吉は約一ケ月で播磨の平定に成功し、いったん安土に戻り、翌年、再び播磨に兵を繰り出してきた。
ところが、長治は突然、毛利氏に転じ秀吉の攻撃を受けることになったのである。これが、史上有名な三木籠城戦である。そして、二年にわたる籠城の末、城中の食糧が尽きて、長治は城兵の命と引き換えに自殺した。
その原因は、叔父吉親を名代として秀吉の陣所に出仕させ、毛利氏攻略の方策をいろいろと献議したが納れられず、長治のもとに戻った吉親は、長治に信長と手を切るように献策したとする説が流布しているが、長治は、丹波の波多野氏と姻戚関係にあったこと、荒木村重が信長に謀叛お起こしたこと。そして、それらの制圧における信長の対応に対して、長治は深く危惧を抱いたのではなかろうか。 いずれにせよ、三木城の籠城戦に敗れたことで、別所氏の嫡流が絶えたことは紛れもない歴史の事実である。
●長水合戦 天正四年(1576)、織田信長はその部将豊臣秀吉に中国地方の平定を命じた。これに対して、播磨国内の諸豪族のうち、赤松則房をはじめ別所長治・小寺政職・小寺孝高らは信長に服従を約していた。一方、赤松政範・赤松広英・宇野政頼・三木通秋らは毛利輝元と通じて信長への服従を拒否していた。秀吉の播磨平定は順調に進むかとみえたが、別所長治が秀吉にそむき、戦線は膠着状態にはいっていった。
しかし、天正八年三木城が落城して別所長治は自殺し、英賀城の三木氏も降された。こうして秀吉の攻撃目標は長水山城に向けられた。天正八年、秀吉はまず篠の丸城を攻め落とし、長水山城を力攻めをせずに完全包囲。
籠城十数日、城兵の疲労をまっていた秀吉軍は攻撃を開始し、城塞は炎上し、長水山城は落城した。政頼・祐清らの城兵は美作の新免氏を頼って落ちていったが、千草で追撃軍と激戦の末、力尽きて一族自刃して滅亡した。