第二章 目薬屋のせがれ
一
山崎の合戦から十二年をさかのぼった元亀(げんき)元年(一五七〇)、黒田官兵衛は姫路で忙しい日々を送っていた。
まだ二十五歳の若者だった
もし官兵衛が当時を振り返るなら、真っ先に思い出すのは、いつも山と積まれた請求書であったかもしれない。当時の黒田家の家計は、いつも火の車だった。
「この姫路は目当ての薬草を植えても、うまく育たないんだよなあ」
「実は若旦那、本日、こちらからうかがったのは内密の話があってのことにございます」
二
「若旦那、その二千斤の玉鋼、注文の主は織田上総介(かずさのすけ)(信長)様にございます。代金は全て生野(いくの)の銀でお支払下されます」
三
「馬鹿は悪人より始末が悪うございますからな」
四
「小坊主、そなたは今日から兵助(ひょうすけ)、と名乗れ」
「苗字は『井口』を名乗れ」
五
「お尋ねゆえ名乗らせていただきますが、あくまで情夫の首をお引き渡し下されたことへの礼儀としてお聞きくださいませ」
「安鈴(あんりん)と申します」
「若旦那、女難の相あり」
六
「おう、婿殿。息災で何より」
ーーあんた、公方のお血筋かい?
「織田殿と浅井朝倉との間で合戦が始まるそうだ。国友は浅井の居城の小谷(おだに)から近い。何か備えをしておいた方がいいぞ」
七
「石田佐吉にございます」
ーーなんて賢い小僧だ。
「四手(しで)を用意してください。」
「それがしの先祖は伊吹山寺の衆徒でした。先ほど石田殿の口から出た木之本に、それがしの先祖は居ったのです。木之本の『黒田』という所です」
「ならばわたしと同じです。官兵衛様。わたしの先祖も伊吹山の衆徒でした。いまもわが石田家は観音寺を預からせていただいております」
八
「千はいるな」
ーーこんなところで命をおとすのか。
ーー牢人はそんなもんだよ。
「おれは牢人じゃねえ、目薬屋だ」
「官兵衛、そなた、まだ織田家を知らぬな」
「目薬屋よりもいくさの方が向いているぞ、官兵衛」
九
それにしてもーー織田軍の不甲斐なさはなんたることであろうか。
「なんとしても食い止めよ。もし討ち死にを遂げたならば、必ず子を取り立ててつかわす。『家』を絶やすことは決してせぬぞ」
「嫌なこった」
「官兵衛、此処からでは磯野隊の動きが手を取るようにはわからん。何かないか」
「凄いな、官兵衛。奴らの鼻の穴までのぞけるぞ」
ーー奴ら、じきにばててくる。
「官兵衛はおれの期待に応えてくれる男だよ」
十
「このまま木下隊にいても手柄の機会がない」
「どうしたいのだ」
「官兵衛はん、あれを見なはれ。あのお侍たち、川を渡って敵の背後を衝こうと思とりまっせ」
「こんな貫禄のない大将は初めて見た」
さりげなくうかがえば、家康は人の良さそうな顔をしていた。ただのお人好しにしか見えなかった。ただしーー。ひとつだけ奇異に感じた点がある。
十一
「播州の国情について訊こう」
「播磨はいまも衆徒の国でございます」
「戦国大名が育たない理由を明らかに申し述べよ」
「汝の名、覚えておくぞ」
「播磨のボンクラどもめ」
ーー信長は必ずおれたちの世界へやってくる。問答無用だ。
だがいま官兵衛の心には、密かに救世主が宿り始めている。その救世主はバテレンの描くマリアやキリストとは似ても似つかぬ姿をしていた。