歴史 [編集]
周代 [編集]
紀元前900年ごろに周の孝王に仕えていた非子(中国語版)が馬の生産 を行い、功績を挙げたので の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領 地を貰ったのが秦邑(現在の張家川回族自治県一帯)であったとい う。伝説上では 姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。それ以 前の 氏は魯に居住していたとされる。
紀元前822年に荘公が西垂(現眉県)の大夫になった。
春秋・戦国時代 [編集]
春秋時代 [編集]
紀元前770年に周が犬戎に追われて東遷した際に、襄公は周の平王を護衛した功で周の旧地 である岐に封じられ、これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所 は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つ かっている。春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑 まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行っ て国を形作っていった。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を雍(現在の陝 西省鳳翔県)に置いた。
九代穆公は百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西 戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国晋にも匹 敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱(中国語版)で混乱すると、恵公を擁立する が、恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死 んだ後に恵公の兄重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君・文公となり、その治 世時には晋にやや押されぎみになった( の戦い(中国語版), 彭衙の戦い)。紀元前628年の文公 死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に 数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度 に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。それでもそれなりの力は保持していたものの春 秋中期以降の主役は北の晋と南の楚であり、それに西の秦と東の斉が脇を固める変則的な四 強時代を作っていた。
戦国時代 [編集]
戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末に韓・魏・趙の三 国に分裂した(晋陽の戦い(中国語版))。この内の魏が戦国初期には名君・文侯により強勢とな り、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(陽狐の戦い(中国語版))。紀元前383年、献 公は櫟陽(中国語版)(れきよう, 現在の西安市閻良区)に遷都した。
この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。 これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力 な中央集権体制へと生まれ変わらせた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始 まる秦の徹底的な法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒して いった。紀元前350年に古都・ 陽(現在の陝西省咸陽市)付近に城門・宮殿・庭園を造営 して遷都し、都の名を咸陽と改めた。
その後、孝公の子の恵文王が紀元前324年に王を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・ 魏・燕・斉の五ヶ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い(中国語版))。紀元前316年に恵文王は巴蜀(中国語版)(現四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い(中国語版))、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚 に対して長江を使った進撃が行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略 に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功す る。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の 子の武王と張儀との確執があったために張儀が魏に亡命、さらに韓との激戦での辛勝により多くの兵を失った上 に自身は突如事故死し、後継者争いが起きてしまい戦力が後退してしまう。
紀元前298年、斉の宰相・孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章(中国語版)を統帥として秦に侵攻した(三國聯 軍攻秦之戰)。秦が函谷関に追いつめられると趙・宋も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を 求めた。この後、東では斉が伸張し、殷の末裔である宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。
紀元前288 年には田斉の 王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめ ざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に 周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、首都臨 が陥落(済 西の戦い(中国語版))。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉、西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行し た。
恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相・魏 と白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。 その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏 や親族の権力が あまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏 らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが 有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これで は勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟 して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この 進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。
紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋にして殺すこと) した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。翌紀元前259年、将 軍を王 に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君・楚の春申君の活躍 によって阻まれた(邯鄲の戦い(中国語版))。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を 持って王命を拒否した結果、死を賜った。
これと時を同じくして敵国の趙で、ひもじく人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不 韋が、子楚に投資をし始める。やがて荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋から貰い受けた愛妾との間に、子 を儲けた。それが政である。紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収したものの、紀元前247年には魏 の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王 と蒙 の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた (河外の戦い(中国語版))。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安僖王(中国語版)に疎まれた信陵君 が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。