徐州市(じょしゅうし)は、中華人民共和国江蘇省の北西端に位 置する地級市。
徐州は、元来は山東省南東部と江蘇省の長江以北の地域を指し た漢代の地方区分の名称であった。古称は彭城(ほうじょう)と も称す。市域内の沛県は劉邦の故郷であるほか、彭城は項羽(項 籍)の都となっていた。
歴史 [編集]
徐州は古くは彭城と称し、2600年に及ぶ悠久の歴史を有する。 『尚書』(書経)の『禹貢』の篇に列記された「九州」の一つに もこの地方一帯を指す「徐州」の名がある。
項羽の都 [編集]
戦国時代中期には宋や楚などにより彭城は争奪された。秦朝が成 立すると彭城県が設置されている。秦末になると過酷な政治に対 する民衆反乱が発生、現在の江蘇省一帯は農民起義の中心地と なった。前209年、下相(現在の宿遷市)の住民項羽、項梁をは じめ、沛(現在の徐州市・沛県)の住民劉邦らは彭城の近くの大 沢郷(現在の宿州)で起こった陳勝・呉広の乱に呼応し秦に反旗 を翻した。秦の滅亡後、項羽は諸侯の連合軍を率いて「西楚霸 王」と称し、楚の故地で故郷に近い彭城(徐州)を都に定め、諸 侯を各地に封じた。前206年、漢王劉邦は挙兵し西楚打倒を目指 し進軍。一年後、不満を持つ諸侯をまとめ60万の大連合軍を結 成し項羽の都の彭城を占領することに成功したが、項羽は救援の ために引き返し、彭城の戦いにおいて3万の精鋭で60万の漢の連 合軍を大敗させ劉邦の一族を捕虜とすると言う古代中国でも例の ない大勝利を収めた。
その戦いで劉邦は追い詰められたが、配下の韓信らの後方撹乱な どで窮地を脱し再び楚に進撃、韓信が諸侯を一掃させ結束を高め た。前202年、漢軍は下 (現在の 州市)を占領し、彭城を守 る将軍・項佗は投降した。項羽軍はこの後に垓下の戦いで四面楚 歌を受けてほとんどの兵士が逃亡、ほぼ壊滅し、項羽は烏江で自 害し楚漢戦争は劉邦が勝利した。