レポート:中国と日本の間(はざま)で
「中国の海洋進出と日本」
第三文明2013年11月号
甲南大学教授 胡金定(こ・きんてい)氏
◎海洋進出は中国の夢であった。
明(みん)の皇帝永楽帝(えいらくてい)は積極的に外交策をとり、自らモンゴルへ五回も遠征、鄭和(ていわ)に大艦隊を率いさせ東南アジアからアフリカ東海岸のケニアまで航海させた。
鄭和は明代の武将で、永楽帝に宦官(かんがん)として仕え、1405年から62隻、乗組員三万人余りの船団を指揮し、アジア、アフリカ三十数ヵ国へ親交を深めている。
ギャヴィン・メンジーズというイギリスの歴史学者の著書によると、鄭和の新大陸発見はコロンブスよりも七十年も早かったのである。この史実空前の壮挙は、あまり知られていないが、その歴史学者の著書により世界的な定説になっている。
◎鎖国政策で「大陸国家」に
永楽帝から宣徳帝(せんとくてい)に代わり、中国は鎖国政策に転じた。
清(しん)代にはいると鎖国令を敷いて海洋に出ることを禁止した。
明代に築き上げた最新鋭の造船・航海技術の開発、そして開国政策は終止符を打たれ、清の末期、船隊は皆無の状態にまで陥った。
これが中国の先行きを大きく左右することとなり、1840年にはアヘン戦争が起き、1949年の新中国創立までの百年あまり、列強の中国侵略が続いた。
中国は1885年、列強への対抗として、ドイツで建造されたアジア最強の戦艦「定遠(ていえん)」および「鎮遠(ちんえん)」を就航させた。
しかし、当時の西太后は軍費を好きな頤和園(いわえん)修復に流用し、最新鋭艦の操縦訓練を怠って日清戦争で日本の砲撃を受け、「定遠」は自沈、「鎮遠」は日本海軍に捕獲された。
ちなみに、同戦争後、引き挙げられた「定遠」の艦材を使った記念館「定遠館」が太宰府天満宮に建造された。
日清戦争後の中国は、内乱が続き海洋進出どころではなかった。
明代の海洋国家から大陸国家になってしまった。
自国民で960万平方キロの国土面積のほかに、300万平方キロの海域面積、1万8千キロほどの海岸線を有することを自覚していなかった。
漁業面においても、沿海、近海に限って漁をするなど、日本に大きく遅れていた。
1949年の中華人民共和国と同時に、中国海軍が建軍されたが、これは防衛のため。
海底石油、ガス、天然資源などの探索に余念がなく、1964年に国家海洋局を設立するも、間もなく文科大革命に突入して海洋進出のいとまはない。
1976年に文科大革命が終結し改革開放が実施してからは中央政府も海洋進出に対する関心を強め、国民の意識も向上。
1989年の全国人民代表大会の政府報告書にも挙げ、さらに江沢民総書記は1992年の共産党大会で「領海の主権と海洋権益の防衛」を報告。以来、本格的に海洋進出に動き出した。
中国は海上国境線確定について、国連海洋法条約と大陸棚条約を採用している。
しかし、長年海洋進出に手が回らなかったために、海上国境線の確定にあやふやなところがあるのは事実。
それによって近隣諸国から異議申し立てされるなどの事件が頻出している。
なかでも日中両国の海上国境線確定の認識の違いは、大陸棚に対する見解の相違に原因があると考えられる。
◎屈辱の歴史・負の教訓
中国はアヘン戦争から百年あまりの歴史については、「屈辱の歴史」「負の教訓」と強く認識している。
今年3月の全国人民代表大会で、温家宝(おんかほう)総理は海洋進出と海洋権益について、
「海洋の総合的管理を強化し、海洋経済を発展させ、海洋資源開発能力を高め、海洋生態環境を保護し、海洋権益を守る」
と熱弁をふるった。
今まで統一されてなかった海上管理を「中国海警局」に一本化することで、法統治に徹していく方向性が示された。
中国は、軍備増強は自国防衛のためであり、近隣諸国に脅威を与えるものではないという公約を表明している。
中国はさらなる努力が必要。
世界から信用される「和諧海洋建設」に徹することを望む。