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◎第1バチカン公会議(だい1バチカンこうかいぎ、ラテン語: Concilium Vaticanum Primum)は、ローマ・バチカンのサン・ピエトロ大聖堂において、1869年12月8日から1870年10月20日の4会期にわたって行われた、カトリック教会の20回目の公会議。
第1バチカン公会議は1868年6月29日ピウス9世の大勅書「エテルニ・パトリス」("Aeterni Patris")の公布で召集された。公会議が行われるのはトリエント公会議以来300年ぶりのことであり、教会内ではこの会議への期待が高く、800名近い参加者がヨーロッパ中から集まった。
公会議は教会論などさまざまなテーマについて広く扱う予定であったが、結局時間的制約によって討議されたのは、近代思想における誤謬を排斥することと、教皇首位説、教皇不可謬説に関する問題であった。この公会議において、 2つの憲章 「デイ・フィリウス」("Dei Filius" 第3総会1870年4月24日)、「パストル・エテルヌス」("Pastor Aeternus" 第4総会1870年7月18日)が採決された。「パストル・エテルヌス」は、教皇首位説および教皇不可謬説に関する教義憲章で、賛成533票、反対2票で採択された。反対票を投じた2名も直ちに決議を受け入れ、投票拒否した反対派61名も全員公会議の宣言に服する意思を表明した。
◎レイテ島の戦い(レイテとうのたたかい)は、1944年(昭和19年)10月20日から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の陸上戦闘である。日本軍の当初の作戦では、ルソン島では陸軍が中心となって戦闘するが、レイテ島を含む他の地域では海軍及び航空部隊により戦闘する方針だった。ところが台湾沖航空戦で大戦果をあげたと信じた大本営は、フィリピン防衛を担当する第14方面軍司令官・山下奉文大将の反対を押し切り、作戦を急遽変更して陸軍もレイテ島の防衛に参加して迎え撃つこととした。ルソン島に配備されるはずだった多くの陸軍部隊がレイテ島へ送られ、連合軍は苦戦を強いられて、のちのルソン島侵攻作戦に遅れが出ている。約2ヶ月の戦闘でレイテ島の日本軍は敗北し、大半の将兵が戦死する結果となったが、死者の多くは餓死者であった。
◎土曜日の夜の虐殺(どようびのよるのぎゃくさつ、英: Saturday Night Massacre)とは、ウォーターゲート事件の渦中であった1973年10月20日土曜日の夜、アメリカ大統領リチャード・ニクソンが同事件の特別検察官(英語版)だったアーチボルド・コックスを解任し、その過程において司法長官エリオット・L・リチャードソンと司法副長官(英語版)ウィリアム・D・ラッケルズハウス(英語版)の2人を辞職に追い込んだ出来事で当時のアメリカ国民に衝撃を与えた。
あるいは土曜の夜の大虐殺及び土曜夜の大虐殺とも言われる。
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開目抄 0207:10〜0208:10
第32章 菩薩等について爾前無恩を明かす
本文
此等の大菩薩の所説の法門は釈尊に習いたてまつるにあらず、十方世界の諸の梵天等も来つて法をとく又釈尊に・ならいたてまつらず、総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住せる大菩薩なり、釈尊の過去・因位の御弟子にや有るらん・十方世界の先仏の御弟子にや有るらん、一代教主・始成の正覚の仏の弟子にはあらず
現代語訳
これらの大菩薩が説いた法門は、釈尊に習い奉ったのではない。十方世界のもろもろの梵天等も来て法を説いたが、また釈尊に習ったのではない。総じて、華厳の会座に集まった大菩薩・天竜等は釈尊以前に不思議解脱に住していた大菩薩である。釈尊の過去因位の修業時代の御弟子であろうか、十方世界の先仏の御弟子であろうか。いずれにしてもインドに生まれて三十歳で成道した釈迦の弟子でないことは明らかである。