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〈人間主義の哲学の視座〉
第3回 対談集『21世紀への対話』に学ぶ?
テーマ 利他
【池田先生】本来、自己超克の力は、全ての人に潜在的にそなわっている。
【トインビー博士】人類の生存が危ぶまれる時代には、人間の「道徳的挑戦」が試される。
“わが身かわいさ”
池田 “善”とわかっていながらそれができない、あるいは“悪”とわかっていながら悪事を働いてしまうというのは、結局、“わが身かわいさ”によるものと考えられます。ここにいう“わが身”とは、さらに家族、同胞、民族、国家という程度にまで拡大して考えることもできましょう。
トインビー 自我の本然的な性向は、自分以外の宇宙を支配し利用しようとすることにありますが、自我はまた、これとは逆に他人や他の事物に自己を捧げることもできます。しかし、この利他主義の道をとることは、利己主義とは反対に離れわざのようにむずかしいことです。
池田 道徳に関する知識がそのまま行動の規範となるためには、自我を自ら統御することが前提となりますが、それを社会的な制裁によって行うのは、若干の効果はあっても完璧な決め手とはなりえません。たとえば殺人行為には、いかなる国家においても最大の重罪が科せられているわけですが、それにもかかわらず跡を断たないのは、このことを物語っていると思います。
トインビー 自己の良心の命ずるところに逆らって悪事を働くのは、簡単なことです。しかしながら、自己の欲望をまったく消し去るということは、自己を抹殺しないかぎり不可能でしょう。また、自己の欲望を完璧な愛と献身の道に向けるのも、きわめて困難なことです。
池田 同感です。心ある多くの人々が、自らのエゴイズムを乗り越えるために、多大の努力を払ってきました。そして、なかには、それを実証したかにみえる人がいたことも確かです。
それらの人々が人類の精神史の偉大な光明であることを否定するつもりはありませんが、あくまで限られた一部の人々にしか体現できなかったところに、大きな問題があると思います。
◇◇
池田 こうした自己超克を妨げている力は、欲望などの意識よりも、さらに深い次元にあるものです。
自己超克を妨げるものが意識下のものであるなら、それを可能にする力も意識の底から引き出す、という方途を考えなければなりません。私は、すべての人々の内面には、本来、その困難な努力を成し遂げる能力が、潜在的にそなわっていると信じています。問題は、そうした潜在的な能力を、いかにして引き出すかだと思うのです。
トインビー 人間が、誰でも聖人の域に達する能力をもっているということは、一応考えられます。そして、たしかに、原子力時代のこうした道徳的挑戦に応じることができなければ、その代償は人類の自滅ではないかという意識も、広まってはいます。
ただ私が結論としていえるのは、人類が人間以外の自然よりも優位に立って以来、今日ほど人類の生存が危ぶまれる時代はいまだかつてなかったということです。こうした人類の生存に対する脅威は、人類が自ら招いているものです。そして、人間のもつ技術が、人間のエゴイズムや邪悪性など、悪魔的な目的のもとに乱用された場合、それは致命的に危険なものとなります。
池田 エゴを捨て去るということはできません。したがって、それを正しく見つめて、あるときは積極的に使いこなし、あるときは抑えるというように、自らコントロールすることが、真に道徳的知識を行動に移すための決め手であると思います。
では、それは、どのようにすれば可能かとなると、やはり、たんに知識としてのみ教え、普及させるだけでは不可能で、一個の人間の意識の奥底から、すなわち全人間的に、改革することが要請されます。もちろん、それは他からの強制ではなく、自身の人格的向上をめざす当人の意志によるわけですが、少なくとも、それを説く哲学には、その哲学をもった人にそれだけの自己変革をもたらす力がなくてはならないと考えます。私が“人間革命”と呼んでいるのは、この全人間的な改革のことなのです。
編集後記
『21世紀への対話』で言及されるように、人類の危機を乗り越えるためには、自己中心性を克服する努力が不可欠だ。だが、その実践の方途を見いだしづらく、また伝えにくいところに、この問題の難しさがある。作家の佐藤優氏は、著書『地球時代の哲学 池田・トインビー対談を読み解く』の中で、その具体的な方法は「正しい師弟関係」にあると指摘。“生き方は、単なる知識ではなく、全人格的な関わりを通じて、初めて伝えられる”との池田先生の指針を紹介している。師弟の精神の探究は、自己超克への意識の高まりとなり、危機を打開する希望となるに違いない。