◎池田大作研究/佐藤優氏(第37回)
内閣調査室と藤原弘達
政府の意をくむ有識者
1969年に『創価学会を斬る』を出版した藤原弘達。
彼は内閣調査室と緊密な関係を持っていたことが、のちの記録でわかった。創価学会を揺るがした「言論問題」において、無視できぬ事実だ。
右に行くか、左に行くか分からない有望な学者に、テーマと研究費を与え、保守陣営につなぎとめる。その象徴的な例が藤原弘達であったという。
「外交フォーラム」のような雑誌への寄稿や講演会の講師を依頼して、金銭的利益を相手が得る環境をさりげなく作る。その先は、外務省の内部使用のための調書の作成を依頼する。そこでは30万〜50万円くらいの破格の原稿料が支払われる。
〈実は、藤原氏と私は東大法学部の同級生である。彼がまだ若年で世間でもあまり知られていない頃から知っていたが、彼が左翼理論家になることを私は恐れた。できるだけわが陣営に近づけようとした。そのため彼を接待することに苦心した。その一つが渋谷のバー「ダイアナ」などに行くことであった。彼はそこで躍り、酒を飲み、大きく振る舞った。………〉
友人ならば公職を離れても会食を続ける。志垣は藤原との関係をあくまで仕事と割り切っていたことが、この記述から滲み出ている。そもそも友人ならば、言論人として致命的な傷になる内調による接待について、藤原の死後にあっても事実を公表することはしない。
志垣は、『創価学会を斬る』については、こう記す。
〈後年、『創価学会を斬る』で名をなしたが、この本を出版するまでの経緯が面白い。田中角栄まで登場する。竹入義勝に頼まれた田中が藤原氏を説得にかかった。しかし、彼は毅然として受け入れなかったのである。そのほか出版妨害はありとあらゆる手段で行われた。「事前に原稿を見せろ」とか、「池田大作創価学会会長には触れないでほしい」とか、「題名をかえてほしい」とか、果ては「交通事故に気をつけろ」〉という脅かしまであった。
それでも藤原氏は一切受け付けず、毅然として出版に踏み切ったのである。本は大変な評判で、多量に売れ、印税も多額だったことはいうまでもない〉
●共産党が主導した世論 反創価学会の一点で共闘
〈――選挙(引用者注=1969年12月27日の第32回衆議院議員選挙)の投票の四ヵ月ほど前、日本をどうするかをテーマにしたという、藤沢のシリーズ本が出版された。………
八月末、その本を宣伝する、電車の中吊り広告が出され、そこに第二巻として、創価学会を批判する本の発刊が予定されていたのだ。
これを見た学会員は、怒りを覚えた。藤沢は、二年半ほど前にも、ある月刊誌で、公明党と学会の批判を展開したが、憶測と偏見に満ちた“中傷”になっていた。
また、藤沢は、テレビやラジオでも毒舌を売り物にし、創価学会を「狂信徒集団」呼ばわりしていた。さらに、学会の婦人たちを侮辱し、卑しめるような発言をしたこともあった。
“また今度も、学会を中傷し、言論の暴力を重ねようというのか!”
“いったい、どういうつもりなんだ!”
学会員はいやな思いをしてきただけに、この広告は、皆の怒りの火に油を注いだのだ。
山本伸一も、この著者の言動には憤りを感じていた。
自分への誹謗ならまだよい。だが、健気に、法のため社会のために、尊き献身の汗を流す婦人部員を侮辱すること、断じて許せなかった。
創価学会の教義や組織に対する具体的、実証的批判なら、対応することができる。しかし、誹謗や揶揄は、偏見に基づくものなので、論争の対象にならない。特に信仰者にとってつらいのは、自らの信仰を揶揄されたことだ。
☆やゆ【揶揄】《名・ス他》からかうこと。
●衆院選では勝利 だが逆風は一層強まった
「言論弾圧するなんて、学会も公明党も戦時中の軍部のようだな」
烈風は、むしろ闘魂の炎を、ますます燃え上がらせていった。
「何を言っているんですか。その軍部政府と命がけで戦って、信教の自由を叫び抜いたのが、学会なんです。それに、これまで、根も葉もないことまで書きたい放題書かれ、悪口を言われ、弾圧されてきたのは、学会の方じゃないですか?」
皆、悔し涙を決意に変えて、敢然と走り抜き、衆院選は公明党が四十七議席を獲得するという大勝利を収めたのだ。
喜びが爆発した。全精魂を注いで、苦難と試練を乗り越え、勝利をわが手にした者のみが得る、生命の凱歌であった。
衆議院議員選挙には勝利したが、創価学会と公明党に対する逆風は一層強まった。創価学会は、大阪事件に匹敵する難に直面することになる。
(AERA2020.9.28)