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2020.9.13-7

2020年09月12日 (土) 09:19
2020.9.13-

◎日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)は、1871年9月13日(明治4年7月29日、同治10年)に、天津で、日本と清の間で初めて結ばれた近代的な条約。両国にとって開国後、初めて外国と結んだ「対等」条約であった[1]。ただし、互いに領事裁判権と協定関税率を認め、最恵国待遇を欠くなどの面で、変則的な対等条約であった[2]。相互に開港することなどを定めており、この条約と同時に、通商章程と海関税則も調印された。

◎藤原 不比等(ふじわら の ふひと)は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。

藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子である。文武天皇2年(698年)には、不比等の子孫のみが藤原姓を名乗り、太政官の官職に就くことができるとされた。不比等の従兄弟たちは、鎌足の元の姓である中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当することと明確に分けられた。このため、不比等が藤原氏の実質的な家祖と解することもできる。



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0186〜0237 開目抄 0202:01〜0203:09 
第27章 経文一一に符合するを明かす

講義

わが身が法華経の行者にあらざるか、また諸天善神等、この国を捨てて去り給えるか、かたがた疑わしとおおせある御文は、大聖人が法華経の行者にあらせられるならば、諸天善神の加護がなければならないはずである。大聖人が法華経の行者でないならば、諸天善神の加護がないのが当然である。しかして、後段において述べるがごとく、釈尊の予言のごとくに、大聖人は法華経の行者にてあらせられる。しかりとせば、諸天善神はどうしているのかということが問題になる。すなわち大聖人が立正安国論においてお述べのごとく、諸天善神が国を捨て去り給うがゆえに、加護の力があらわれなかったと見るべきである。


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