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◎大宝律令はなぜ作られた?理由を解説
681年に天武天皇から発令された詔によって、まず編纂されたのは、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。持統(じとう)天皇の時代である689年に施行されました。この令ではまだ律はなく、また唐の律令を手本にしすぎたため日本にあまり合っていませんでした。
したがって、その不備を補うため、そのまま律令の編纂は継続されます。そして天武天皇時代の701年に日本の実情に合った念願の大宝律令が完成するのです。
では、なぜ大宝律令が成立したのでしょうか。
それは、中央集権国家の成立が必要だったから。「乙巳の変」や「壬申の乱」といった内乱がたび重なり、国を立て直すためにはちょっとしたことでは揺るがないような、権力をひとつにまとめた「律令国家」に成長することが、当時の天皇にとって取り組むべき課題でした。
また百済という外交国が滅亡し、唐・新羅が攻めてくる可能性が高くなったため、対抗するための国力が必要となり、そのためにも唐を見習って天皇を中心とした国家の体制を急速につくる必要があったのです。
大宝律令という本格的な法律を作ることは、律令国家体制の国の基礎作りでした。
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0186〜0237 開目抄 0202:01〜0203:09
第27章 経文一一に符合するを明かす
阿育大王
BC3世紀頃の人(在位BC0268〜BC0232年頃)。阿育は梵名アショーカ(Aśoka)の音写。阿輸迦等とも書き、無憂と漢訳する。また天愛喜見王とも呼ばれる。インドのマウリア朝第三代の王。祖父チャンドラグプタがナンダ朝を倒してマウリア王朝を建て、阿育王は治世の前半を征服戦に費やし、ほぼ全インドにわたる最初の大国家を建設した。しかし自ら行なった殺戮の跡を眼のあたりにして改心し、以後は平和主義に徹し篤く仏教を信じてその慈悲の精神を施政に反映した。更に、八万四千(数多くの意)の塔を造り、仏舎利を供養した。第三次の仏典の結集を行ない、五年ごとに大会を設けて教法の義理を論議させた。また、遠くギリシャ、エジプトの地にも使者を派遣し平和の精神を訴えた。