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2020.9.8-6

2020年09月07日 (月) 00:32

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◎本条約はアメリカ合衆国のサンフランシスコ市において署名されたことから、サンフランシスコ平和条約、サンフランシスコ講和条約、サンフランシスコ条約などともいう。1951年(昭和26年)9月8日に全権委員によって署名され、同日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約も署名された。翌年の1952年(昭和27年)4月28日に発効するとともに「昭和27年条約第5号」として公布された。


◎9月8日は「原水爆禁止宣言の日」です。
生存の権利への脅威は“魔もの”
1957(昭和32)年のこの日、横浜・三ツ沢の競技場に5万人の青年が集って開催された「東日本体育大会」の席上、第二代会長戸田先生は、歴史的な「原水爆禁止宣言」を発表しました。

戸田先生はまず「諸君らに今後、遺訓すべき第一のものを、本日は発表いたします」と述べ「今、世に騒がれている核実験、原水爆実験にたいする私の態度を、本日、はっきりと声明したい」「私の今日の声明を継いで、全世界にこの意味を浸透させてもらいたい」「核あるいは原子爆弾の実験禁止運動が、いま世界に起こっているが、私はその奥に隠されているところの爪をもぎ取りたいと思う」「われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります」「(この)思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信じるものであります」と高らかに宣言しました。

核兵器の存在自体が“絶対悪”
この宣言を発表した当時、世界は冷戦の真っただ中で、大国が軍備拡大にしのぎを削り、原水爆は人類の未来に暗い影を落としていました。戸田先生による「原水爆禁止宣言」は、“核抑止論”に代表されるような、核兵器を正当化しようとする動きや考え方に対して、仏法の絶対平和主義に基づき、民衆の生存の権利を守るという立場から、核兵器の存在自体を「絶対悪」と断じ、その完全否定を宣言したものでした。
池田先生は宣言がもつ意義について「宣言の核心は、原水爆を使おうとする発想の背後に隠された『爪』、すなわち、人間のなかに巣くう“魔性の生命”に、鋭くメスを入れられたところにある」とつづっています。
1979(昭和54)年、「原水爆禁止宣言」を発表した横浜の地に、その平和思想をとどめるため、創価学会戸田平和記念館が設立されました。

コラム
創価の平和運動の原点
戸田先生が“遺訓の第一”として青年部に託したのは、仏法者としての根源的な視点からの“平和への叫び”でした。その恩師の叫びを胸に深く刻み、今日にいたるまで平和へのたゆみなき行動を続けてきたのが池田先生です。
「原水爆禁止宣言」から11年後(1968年)の9月8日に、中国との国交回復を訴える「日中国交正常化提言」を発表。さらに6年後(1974年)のこの日には“宗教者がなぜ宗教否定の共産主義の国へ行くのか”との非難をものともせず、初のソ連訪問の旅へ出発。ソ連の最高首脳らと率直に語り合い、平和への“人間外交”を繰り広げたのです。さらに、池田先生は世界54カ国・地域をめぐる“平和旅”で、各国の首脳や識者、市民らとの地道な対話で“平和への友情”を広げてきました。
このほか、池田先生の提案を受けて創価学会は「核廃絶一千万署名運動」「核の脅威展の開催」「反戦出版運動」など多彩な平和運動を展開。その間、世界情勢は冷戦から緊張緩和、軍縮へと大きな転換を見せます。早くから原水爆の絶対禁止を訴えた戸田先生の先見性と、その思想を世界に広めようと奔走を続けた池田先生の“師弟の絆”が、首脳や国際世論を動かし、世界を変えていったといっても過言ではありません。「原水爆禁止宣言」は、今日、世界中で幅広く展開されているSGIの平和運動の不滅の原点となっているのです。

◎ 小説『人間革命』とは、恩師・戸田城聖先生の精神を後世に伝えようと、池田大作先生が書き綴った大河小説である。文中、戸田の弟子として登場する「山本伸一」は、池田先生をモデルとして描かれている。

物語は、戸田城聖という一人の人間の半生と、その弟子である山本伸一の師弟の闘争を軸に、創価学会の歴史を戦後史に位置づけながら綴られていく。

1964年12月2日、凄惨な地上戦の舞台となり、戦争で最も民衆が苦しめられた沖縄の地で、世界平和を願い、執筆を開始。翌1965年の元日より、聖教新聞紙上に連載が始まった。

『人間革命』全12巻の執筆、連載が終了すると、先生は「恩師の精神を未来永遠に伝えゆくには、後継の『弟子の道』を書き残さなければならない」と、続編の執筆を決意。

続編となる『新・人間革命』は、広島に原爆が投下されてより48年となる1993年8月6日、長野の地で起稿し、2018年の同日、同じ長野の地で脱稿。山本伸一の、師弟の誓いに貫かれた世界広布への大闘争が綴られている。新聞連載回数は、同年9月8日の連載完結で、日本一の6469回(全30巻)に達した。

現在、『人間革命』は海外9言語に、『新・人間革命』においては、13言語にまで翻訳・出版されている。



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0186〜0237 開目抄 0202:01〜0203:09 
第27章 経文一一に符合するを明かす

提婆
 梵名デーヴァダッタ(Devadatta)の音写・提婆達多の略。また調達とも書く。漢訳して天授・天熱という。大智度論巻三によると、斛飯王の子で、阿難の兄、釈尊の従弟とされるが異説もある。出生のとき諸天が、提婆が成長の後、三逆罪を犯すことを知って、心に熱悩を生じさせたので、天熱と名づけたという。釈尊が出家する以前に悉達太子であったころから釈尊に敵対し、悉達太子から与えられた白象を打ち殺したり、耶輸陀羅女を悉多太子と争って敗れたため、提婆達多は深く恨んだ。また仏本行集経巻十三によると釈尊成道後六年に出家して仏弟子となり、十二年間修業した。しかし悪念を起こして退転し、阿闍世太子をそそのかして父の頻婆沙羅王を殺害させた。釈尊に代わって教団を教導しようとしたが許されなかったので、五百余人の比丘を率いて教団を分裂させた。また耆闍崛山上から釈尊を殺害しようと大石を投下し、砕石が飛び散り、釈尊の足指を傷つけた。更に蓮華色比丘尼を殴打して殺すなど、破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢の三逆罪を犯した。最後は、王舎城の中で、大地が自然に破れて生きながら地獄に堕ちたとされる。しかし法華経提婆達多品第十二で釈尊が過去世に国王であった時、位を捨てて出家し、阿私仙人に千年間仕えて法華経を教わったが、その阿私仙人が提婆達多の過去の姿であるとの因縁が説かれ、未来世に天王如来となるとの記別が与えられ悪人成仏が説かれた。


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