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◎その10日前の8月14日の午後8時ごろ、池田青年は、小学校時代の同級生に誘われて、東京の蒲田で開かれた学会の座談会にはじめて出席しました。
暗い夜道を抜けて座談会の会場に到着すると、部屋の中から御書(立正安国論)を講義する凛とした声が聞こえてきました。その声の主こそ、当時理事長だった第二代会長戸田城聖先生でした。
「この人なら信じられる」と決意
講義の終了後、人生に対する確かな答えを渇望していた池田青年は、一人立ち上がり、戸田理事長に「正しい人生とはなにか?」などいくつか質問をします。??青年の質問の一つ一つに、真剣に、明快に答える戸田理事長の確信に満ちた言葉に心を打たれた池田青年は、その場で即興の詩を朗唱しました。「旅びとよ/いずこより来(きた)り/いずこへ往(ゆ)かんとするか/月は 沈みぬ/日 いまだ昇らず/夜明け前の混沌(カオス)に/光 もとめて/われ 進みゆく/心の 暗雲をはらわんと/嵐に動かぬ大樹を求めて/われ 地より湧き出(い)でんとするか」
池田先生は当時を振り返り、つづっています。「この時、私は深遠な仏法の哲理を、十分に納得できたわけではない。家族も大反対であった。ただ私は、表層の次元を超克して、戸田城聖という人格に魅了されてならなかったのである」
その10日後の8月24日、池田青年は創価学会に入信しました。
◎『立正安国論』(りっしょうあんこくろん)は日蓮が執筆し、文応元年7月16日(ユリウス暦1260年8月24日、グレゴリオ暦1260年8月31日[1])に時の最高権力者にして先の執権(得宗)である北条時頼(鎌倉幕府第5代執権)に提出した文書。
◎瀧 廉太郎(たき れんたろう、1879年(明治12年)8月24日 - 1903年(明治36年)6月29日)は、日本の音楽家、作曲家。明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。
◎遼陽会戦(りょうようかいせん)は、日本とロシアが満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年(明治37年)に勃発した日露戦争における会戦。同年8月24日から9月4日まで行われた。両軍の主力がはじめて衝突した戦いで、ロシア軍は15万8,000の兵をもって防御網を展開し、日本軍は12万5,000の兵で、計28万の兵が衝突。鴨緑江会戦と並び、日本軍にとってははじめて近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。
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0186〜0237 開目抄 0200:17〜0202:01
第26章 略して法華経行者なるを釈す
本文
東春に云く「問う在世の時許多の怨嫉あり仏滅度の後此経を説く時・何が故ぞ亦留難多きや、答えて云く俗に良薬口に苦しと云うが如く此経は五乗の異執を廃して一極の玄宗を立つ、故に凡を斥け聖を呵し大を排い小を破り天魔を銘じて毒虫と為し外道を説いて悪鬼と為し執小を貶して貧賤と為し菩薩を挫きて新学と為す、故に天魔は聞くを悪み外道は耳に逆い二乗は驚怪し菩薩は怯行す、此くの如きの徒悉く留難を為す多怨嫉の言豈唐しからんや」
現代語訳
東春に智度法師がいわく「問う、釈尊在世においても若干の怨嫉があったが、仏滅後にこの経を説く時また何がゆえに留難・迫害が多いのであるか。答えていわく俗に良薬口に苦しというがごとく、この法華経は、人・天・声聞・縁覚・菩薩の五種類に人生の目的を定める異執を打破して、人生の目的はただ一つ成仏することであると説くのである。ゆえに爾前の凡位のものを斥け聖位の者を呵し、大乗を排し小乗を破り、天魔を毒虫であるとなし外道を悪鬼となし、小法に執着するものを貶して貧賎となし、菩薩を挫いて新学の者となす、このゆえに天魔は聞くを悪み、外道は耳に逆って憤り、二乗は驚き怪しみ、菩薩は怯えて行く。このような徒輩がことごとく留難をなすから、怨嫉が多いという仏の予言が、どうしてむなしかろうか」と。