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◎壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(1870年(明治3年)に弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が兵を挙げて勃発した。反乱者である大海人皇子が勝利するという、日本では例を見ない内乱であった。
名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。
◎禁門の変(きんもんのへん)は、元治元年7月19日(1864年8月20日)に、京都で起きた武力衝突事件。蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)、元治の変(げんじのへん)とも呼ばれる。
前年の八月十八日の政変により京都を追放されていた長州藩勢力が、会津藩主・京都守護職松平容保らの排除を目指して挙兵し、京都市中において市街戦を繰り広げた事件である。畿内における大名勢力同士の交戦は大坂夏の陣(1615年)以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。
大砲も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、尊王攘夷派は真木保臣ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った一橋慶喜・会津藩・桑名藩の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる(一会桑政権も参照)。
禁門の変後、長州藩は「朝敵」となり、第一次長州征討が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって薩長同盟(1866年)が結ばれ、四侯会議(1867年)においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。
「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が京都御所の御門周辺であったことによる。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。
◎ 序曲『1812年』
(じょきょく1812ねん、露: Торжественная увертюра ?1812 год?)変ホ長調 作品49は、ピョートル・チャイコフスキーが1880年に作曲した演奏会用序曲。タイトルの「1812年」はナポレオンのロシア遠征が行われた年である。大序曲『1812年』(だいじょきょく-)、荘厳序曲『1812年』(そうごんじょきょく-)、または祝典序曲『1812年』(しゅくてんじょきょく-)などと呼ばれることもある。チャイコフスキー自身は決して精魂を込めて書き上げた作品とは受け止めてはいなかったものの、歴史的事件を通俗的に描くという内容のわかりやすさによって、人々に大いに喜ばれる作品となった。
『1812年』は1882年8月20日(ユリウス暦8月8日)、建設中の救世主ハリストス大聖堂で開かれたモスクワ芸術産業博覧会が主催するコンサートに於いて、イッポリト・アリターニ(英語版)の指揮により初演された。「イタリア奇想曲」とともにプログラムに載ったこの新作は、当時の新聞批評では凡作だと片づけられてチャイコフスキーの予感はこの時点では当たった。
◎中国同盟会(ちゅうごくどうめいかい)は、清末、1905年8月20日、孫文らにより東京で結成された政治結社。略称は同盟会。孫文を中心に清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体である。
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0186〜0237 開目抄 0200:17〜0202:01
第26章 略して法華経行者なるを釈す
本文
第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん」等云云、第五に云く「一切世間怨多くして信じ難し」等云云、又云く「諸の無智の人の悪口罵詈する有らん」等、又云く「国王・大臣・婆羅門・居士に向つて誹謗し我が悪を説いて是れ邪見の人なりと謂わん」と、又云く「数数擯出見れん」等云云、又云く「杖木瓦石もて之を打擲せん」等云云、
現代語訳
また第二の巻譬喩品にいわく、「法華経を読誦し書持する人を見て、軽んじ賤しみ憎み嫉んで、深くこの人を怨むようになる」と。また第五の巻にいわく「一切世間の人は怨が多くて、正法を信じがたい」と。同じく勧持品に「もろもろの無智の人があって悪口罵詈するであろう」と。また同じく「国王・大臣や婆羅門・居士等に向かって法華経の行者を誹謗し、行者の悪い点を挙げて、この人は邪見の人であると訴えるであろう」と。また同品に「法華経の行者は、権力者や大衆に迫害されて数々擯出されるであろう」と。またいわく「杖木や瓦石をもって行者を打擲するであろう」等々と説かれている。