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2020.8.16-6

2020年08月15日 (土) 00:21
2020.8.16-

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◎元来は旧暦の7月16日に行われてきた盆送りは、明治の改暦後、多くの地域で月遅れとなる8月16日に開催されております。
送り火は、お盆に帰ってきた先祖の霊を送り出す行事

◎ベニントンの戦い(英: Battle of Bennington)は、アメリカ独立戦争中の1777年8月16日に起こった戦いである。バーモント共和国ベニントンの近くで起こったので、名前はベニントンの戦いとなっているが、実際の戦場は境界を越えて数マイルニューヨーク植民地に入ったワルームザックであった。ジョン・スターク将軍とセス・ワーナー大佐に率いられたニューハンプシャーとバーモントの愛国者軍民兵約2,000名が、フリードリッヒ・バウム中佐率いるドイツ人傭兵部隊とカナダ兵、王党派兵およびインディアンの連合軍約1,250名を破った。

◎キャムデンの戦い(キャムデンのたたかい、英: Battle of Camden)は、アメリカ独立戦争中の1780年8月16日に南部戦線のサウスカロライナ、キャムデンで、ホレイショ・ゲイツ将軍指揮の大陸軍とチャールズ・コーンウォリス将軍指揮のイギリス軍の間で戦われた重要な戦闘である。イギリス軍が大陸軍を一掃し、カロライナでのイギリス軍支配を確固たるものにした。

◎領土の略奪と強制収容所
しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、日本の同盟国の満州国と蒙古聯合自治政府への攻撃のみならず、南樺太と千島への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。スターリン自身は問題を感じておらず、別荘の居間に新しい世界地図を貼り、新国境線をパイプでなぞりながら「クリル諸島、サハリン全土、旅順、大連、全てわれわれの所有物だ。何とすばらしい!」と悦に浸っていた[292]。また、スターリンは南樺太や千島列島に加えて、北海道北部(留萌市 - 釧路市を結ぶ線から北東側全域。留萌市・釧路市については分割せずソ連が占領)をも併合しようとする案をトルーマンに申し入れていた(これに対し、トルーマンはこの提案を拒否した)。

同年8月23日に「国家防衛委員会決定 No.9898」を発令、これにより戦後に抑留された日本軍捕虜と日本の民間人は約57万から70万人とされる。これら日本軍捕虜や民間人をシベリアに抑留して強制労働に就かせたほか、日本企業の生産設備などをソ連国内に違法に運び去った。その上に英米軍を中心とした連合国軍最高司令官総司令部に対し、北海道全体と東北一帯の分割占領を提案したものの、これは即座に英米から拒否された。

このような国際法さえ無視した蛮行により、ソ連は第二次世界大戦によって領土が大幅に拡大した。しかし、スターリンの領土に対する欲は収まらず、 ………


◎元満洲国皇帝・溥儀が東京裁判にソ連の証人として出廷。ソ連に有利な証言をするが、後に自著でソ連に強要されたものだったと述べる。

溥儀がソ連の強制収容所に収監された翌年の1946年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)には、証人として連合国側から指名され、ソ連の監視下において空路東京へ護送され、同年8月16日よりソ連側の証人としてソ連に有利な証言を強要された。その際、板垣征四郎(当時は大佐)から「本庄繁司令官の命令として満洲国における領軸になって欲しい」、という依頼があった事を証言し、「自分の立場は日本の傀儡以外何ものでもない」と主張した。

後に溥儀の発言の信憑性が低下した要因に、溥儀は法廷において興奮することが多く、「顧問の話では、板垣はもしもこの申し出を拒絶すれば、生命の危険があると脅迫した。それで、両名と顧問の1人の羅振玉は、板垣の申し出を受諾するようにと私に勧めた」、「本当の気持ちは拒絶したかった。しかし4人の顧問は受諾を勧めた。当時、日本軍の圧迫を如何なる民主国家も阻止しなかった。私だけでは抵抗出来なかった」、「私の意志は拒絶するにあったが、武力圧迫を受け、しかも一方に顧問から生命が危険だから応諾せよと勧められて、遂にやむを得ず受諾したのだ」、「日本は満洲を植民地化し、神道による宗教侵略を行おうとした」と証言した。

それ以外にも、「私の妻は日本軍に毒殺された」と興奮しながら語り、日本軍を糾弾するとともに「満洲問題に関する責任は全て日本にある」と強調した。これに対して、被告側の弁護団は、反対尋問において、満洲国建国当時の南次郎陸相に送られた、日満提携を認める「宣統帝親書」を証拠として提出して溥儀の証言内容の信憑性を追及した。溥儀の証言は、信憑性が低いとみなされ、判決文において引用されることはなかった。ジョンストンの著書である『紫禁城の黄昏』も弁護側資料として提出されたが、さしたる理由も提示されないままに却下され裁判資料とはされなかった[16]。

後に認めた自叙伝『わが半生』では、「今日、あの時の証言を思い返すと、私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」と記している。ちなみに、東京裁判において、検察陣から直接尋問を受けた証人は溥儀のみだった。


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0186〜0237 開目抄 0200:02〜0200:16 
第25章 末法法華経行者の所由

講義

 このおことばこそ、一切衆生の不幸の根源は邪宗およびその教祖なりと喝破せられた、御本仏の師子吼である。われら創価学会員こそ、この大聖人の師子吼のままに、不幸の原因は邪宗邪義にありと折伏行に励む、真の仏弟子なりと確信してやまない。
かつ、大聖人御在世当時以来、今日にいたるも、わが日本民族をむしばみ、不幸におとしいれてきた元凶は、念仏、真言、禅などの既成仏教である。また、これらが結束して全日仏となり、その後の新興宗教は結託して新宗連をつくり、政界への進出を企てる姿は、「悪鬼其の身に入る」の現実の姿であると断ずるものである。
 立正安国論にいわく、
「悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(0024:02)と。


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