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◎アルジュバロータの戦い(ポルトガル語:Batalha de Aljubarrota, スペイン語:Batalla de Aljubarrota)は、1385年8月14日、ポルトガル王ジョアン1世および将軍ヌノ・アルヴァレス・ペレイラ率いるポルトガル軍とカスティーリャ王フアン1世の軍との間で、ポルトガル王位を巡って行われた戦闘。カスティーリャ軍は決定的敗北を喫し、ジョアン1世のポルトガル王位が確立された。
◎ジョアン1世(João I, o de Boa Memória, 1357年4月11日 - 1433年8月14日)は、ポルトガル王国アヴィス王朝の創始者でポルトガル王(在位:1385年 - 1433年)。ペドロ1世の庶子で、フェルナンド1世の異母弟。エンリケ航海王子の父に当たる。政治・軍事の多くに成功を収め、ポルトガルの全盛期の基礎を築き上げたことから「大王」と呼ばれている。
◎米西戦争(べいせいせんそう)は、1898年にアメリカ合衆国とスペイン(西班牙)の間で起きた戦争である。アメリカ海軍の軍艦爆発を機にアメリカ世論の好戦ムードは高まる一方だった。スペインは自国傘下の海底ケーブルを持たなかったので通信面で不利に立たされた。スペインは敗北し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。20世紀のキューバの歴史家は1868年から独立運動を続けてきたキューバ独立軍との関係からこの戦争をスペイン・アメリカ・キューバ戦争(米西キューバ戦争)と呼び、1946年にキューバ議会はこの名称をキューバにおけるこの戦争の正式名称とすることを決議した[3] 。
アメリカ軍管理下のキューバの独立
スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は8月12日に停止した。形式上の和平条約は12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。
アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得しキューバを保護国として事実上の支配下に置いた。以降、アメリカの国力は飛躍的に拡大していき南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力が一掃され代わりにアメリカが入れ替わって影響力を持つという覇権の移譲とも取れる流れになっている。
スペインは戦後、植民地を失ったために国力が低下し新興国家・アメリカにあっけなく敗れたことから欧州での国際的地位も発言力も同時に失った。ルネサンスから始まったポルトガル・スペインの帝国主義が破綻し、産業革命に支えられた新しい帝国主義へ完全に移り変わった瞬間とも取れる。
連邦議会は開戦前に、キューバの独立を支持してこれを討論の後承認した。アメリカ軍は1909年1月28日までキューバを占領した。アメリカはスペイン植民地のプエルトリコ(→プエルトリコ)、フィリピン(→フィリピン、米比戦争)およびグアム(→グアム島)を併合した。
◎北京進攻
紫禁城内の連合軍
8月14日、連合軍は北京攻略を開始し、翌日陥落させた。北京には八旗や北洋軍ほかおよそ4万人強の兵力が集められたが、さきに天津から進攻する連合軍との戦いで敗れ、戦死あるいは戦意喪失による逃亡によって城攻防戦の際にはすでに多くの兵が失われていた。この北京占領以後、およそ1年間に及ぶ占領体制が布かれることになる。
占領直後から連合軍による略奪が開始され、紫禁城の秘宝などはこれがきっかけで中国外に多く流出するようになったと言われる。連合軍の暴挙によって王侯貴族の邸宅や頤和園などの文化遺産が掠奪・放火・破壊の対象となり、奪った宝物を換金するための泥棒市が立つほどであった。
日本軍は他国軍に先駆けて戦利品確保に動き出し、まず総理衙門と戸部(財務担当官庁)を押さえて約291万4800両の馬蹄銀や32万石の玄米を鹵獲した。そのためか列国中戦利品が最も多かった。これは後述する情報将校、柴五郎の指示に拠るものである。
◎蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん[# 1])は、日露戦争での日本海軍とロシア海軍との間の海戦である。英語では時に Battle of the Japanese Sea とも呼ばれるため日本海海戦(Battle of Tsushima)と混同しないよう注意が必要である。
8月14日午前4時25分、蔚山南方を南下中であった上村率いる装甲巡洋艦「出雲」「吾妻」「常磐」「磐手」からなる第二戦隊は左舷前方に灯火を発見し、4時50分にそれがウラジオストク艦隊であると確認した。一方、ウラジオストク艦隊の方も4時30分に北方に日本艦隊を発見している[10]。ウラジオストク艦隊は南に向けて逃走を図ったが、敵発見の報を受けて南から北上してくる「浪速」を発見し、一戦を交えるのもやむなしと北北西に転針。それを受けて第二戦隊も東南東に変針した。
瓜生少将率いる浪速と高千穂はリューリクに対し8時42分に砲撃を開始した。リューリクは魚雷を発射したり衝角攻撃を試みるなど抵抗を続けたが10時ごろには沈黙、指揮をとっていたコンスタンチン・イワノフ=トゥリナーッツァッチ(ロシア語版)大尉は自沈を命じリューリクは沈没した[24]。リューリクの沈没後日本側は救助作業を行い626名を救助した[25]。
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0186〜0237 開目抄 0200:02〜0200:16
第25章 末法法華経行者の所由
講義
悪鬼の身に入りたる者
涅槃経にいわく「菩薩・悪象等に於いては心に恐怖すること無かれ、悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ・悪象の為に殺されては三趣に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に到る」と。悪象とは、世間の悪縁であり、現代の世相にあてはめていえば、交通事故、不慮の災害による死、政治の貧困によるゆえの種々の苦しみ等をさすといえよう。
悪知識とは、出世間の悪縁、すなわち、誤れる宗教、邪悪なる宗教に迷わされて、生命の根源よりむしばまれ、福運をなくし、不幸におちゆくことである。三趣とは、地獄・餓鬼・畜生の三悪道である。
すなわち、いっさいの不幸の本源として、もっとも恐るべきは、邪宗教であり、その他の世間の不幸、苦しみは、それによってもたらされたところの助縁にすぎないのである。こんにちの政治の腐敗堕落、貧困も、その本源は、邪宗教にあることを知らねばならない。