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◎カンナエの戦い(カンナエのたたかい)は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。第二次ポエニ戦争における会戦の一つで、ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上名高い。2倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利であった。カンネーの戦いとも表記する。
◎承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。武家政権という新興勢力を倒し、古代より続く朝廷の復権を目的とした争いである。北条義時は朝廷を武力で倒した唯一の武将として後世に名を残すこととなった。この乱は承久の変[1]、承久合戦ともいう。
日本史上初の朝廷と武家政権の間で起きた武力による争いであり、朝廷側の敗北で後鳥羽上皇は隠岐に配流され、以後、鎌倉幕府は、朝廷の権力を制限し、京都に朝廷を監視する六波羅探題を置き、皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、幕府主導の政治体制を固めた。また、将軍の代理人である執権職の北条氏が実質的に鎌倉幕府を支配する執権政治が100年以上続くこととなった[2]。
平安時代末期の保元の乱や平治の乱により、貴族階級の衰退と武士階級の飛躍的な台頭の後、1185年に初めての武家政権となる鎌倉幕府が成立したが、東日本を勢力下においた鎌倉幕府と、西日本の支配を保った朝廷による2頭政治となり、朝廷では新興の武家政権への反感が募っていった。その鎌倉では、幕府の初代将軍の源頼朝が落馬で死亡、2代将軍の頼家と3代将軍の実朝が次々と暗殺され、天皇家の血を引く源氏将軍が鎌倉から滅亡し、この1219年以降、北条氏が執権職にもかかわらず鎌倉幕府を実質的に手中に収めるに至り[2]、朝廷は、武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、この2年後に承久の乱が起きた。
◎湾岸戦争(わんがんせんそう、英語: Gulf War、アラビア語: ??? ?????? ????????)は、1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに、国際連合が多国籍軍(連合軍)の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆して始まった戦争である。
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0186〜0237 開目抄 0199:03〜0199:11
第23章 華厳・真言の謬解を挙ぐ
講義
世間の罪に依って悪道に堕る者は爪上の土云云
このおことばは、仏法律の厳しさを申された、重大なご警告であると拝すべきであろう。われわれの人生において、幸・不幸を決定する、さまざまの法がある。大きく分けて、それは、三つに集約される。世間法、国法、仏法である。
世間法とは、社会の風俗、習慣、慣習であって、これが規制するところは、相対的であり、ゆるい。ある地方では、禁じられていることでも、別の地方では許されることが多い。また、これに違反したことを行なっても、せいぜい、笑われたり、悪口をいわれたり、交際を禁じられたりするに留まる。
国法は国家や地方自治体で定められた法律で、これに反したことを行なった場合、それがはっきりと認められれば、刑罰を受ける。これは罰金なり、体刑なりの実質的効果をもつもので、ある程度の情状酌量はあっても、法に定められた規則は曲げられない。しかし、これとて、つぎの仏法律に較べれば、きわめて目の粗い網といえよう。
仏法は、自己の生命の因果律であって、仏法に反したことをすれば、絶対にその結果生ずる罰の現証をまぬかれることはできない。しかも、世間法、国法は、その正邪の判別が、かんたんであるが、仏法は、生命の本源を解明せられた深々の哲学である。しかも、これを修行する人を妨げんとする魔の働きも盛んである。したがって、これに迷い、罰をうけて、悪道におちる者は、世間、国法の罪によって悪道に堕ちる者より、比較にならないほど多いのである。
真実の人生の幸福をめざすならば、世間法、国法を知り、守ることはとうぜんのこととして、もっとも根本的に幸、不幸を左右する仏法を知り、守るべきことを主張するものである。それを明示された文こそ、仏の言々句々であり、すなわち経文、大聖人の御書なのである。