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2020.7.2-6

2020年07月25日 (土) 12:20
2020.7.2-6

◎ホセ・フランシスコ・デ・サン・マルティン・イ・マトーラス(José Francisco de San Martín y Matorras, 1778年2月25日 - 1850年8月17日)は、アルゼンチン出身の軍人で政治家。南アメリカ各国をスペインから独立させるために活躍した。

シモン・ボリバル (Simón Bolívar)として知られるシモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ボリバル・パラシオス・ポンテ・イ・ブランコ[注釈 1](Simón José Antonio de la Santísima Trinidad Bolívar Palacios Ponte y Blanco、1783年7月24日 - 1830年12月17日)は、南米大陸のアンデス5ヵ国をスペインから独立に導き、統一したコロンビア共和国を打ちたてようとした革命家、軍人、政治家、思想家。 ベネズエラのカラカスにアメリカ大陸屈指の名家の男子として生まれたが、早いうちに妻を亡くしたことがきっかけとなって、その後の生涯をラテンアメリカの解放と統一に捧げた。このため、ラテンアメリカでは「解放者」 (El Libertador) とも呼ばれる。多くの武将を配下にして使いこなし、特にアントニオ・ホセ・デ・スクレ将軍との親交は有名である。

☆ベネズエラの正式な国号は「ベネズエラ・ボリバル共和国」。ベネズエラに生まれ、「南米解放の父」と呼ばれる英雄、シモン・ボリバル(1783年〜1830年)の名を冠する。ベネズエラという名は、15世紀末にこの地を訪れたスペインの探検家が、マラカイボ湖畔の風景を“水の都”ベネチアになぞらえたことが起源とされる。

ベネズエラは、シモン・ボリバルをはじめ、南米解放の歴史の名を刻む数多くの偉人を輩出した地としても名高い。激動の時代を生きた彼らは、若くして祖国の解放と、人民の幸福という“大義”に身を投じた。

1806年、いちはやく祖国の独立に決起し「南米解放の先駆者」として讃えられる、フランシスコ・デ・ミランダ(1750年〜1816年)。
19世紀の南米が生んだ最大の人文学者で、スペイン語文法の整備、「チリ民法典」の起草など多彩な功績で知られる“知の巨人”、アンドレス・ベージョ(1781年〜1865年)。
そして、シモン・ボリバルの師であり、生涯を通じて貧困層の教育に身を捧げた哲学者、シモン・ロドリゲス(1769年〜1854年) ??。

池田大作先生は、南米の偉人たちの“教育への信念”や“不屈の生き方”を、折に触れて、未来を担う青年たちに紹介してきた。

「『激動の時代』とは、まさに『青年が登場すべき時代』であろう」「私がボリバルの『闘争の魂』を、これまで幾度となく青年に語ってきたのも、そうした青年への期待の心情からにほかならない」(『新・私の人物観』 無私の英雄??シモン・ボリバル)

◎基本国策要綱(きほんこくさくようこう)は、昭和15年(1940年)7月26日に第2次近衛内閣によって閣議決定された政策方針。これにより大東亜共栄圏の建設が政策となった。


◎(画像左から)トルーマン、チャーチル、蒋介石がポツダム宣言を発表(1945)。日本は当初これを黙殺。同日、イギリス保守党が総選挙で敗北しチャーチルは急遽帰国。
吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス――第13条

◎カシミール紛争(英語: Kashmir conflict ヒンディー語: ?????? ????? 翻字: kshmir vivaad)は、カシミールをめぐって、インド、中華人民共和国、およびパキスタンの3カ国が領有権を主張している地域紛争である。

概要
カシミール地方をめぐって、インドは、ジャンムー・カシミール藩王国の藩王が歴史的に統治していた領域全体の領有を主張している。一方でパキスタンは、中国の支配地域を除いた全域を自国の領土であると主張している。

インドは、ジャンムー、ラダックおよびシアチェン氷河のほとんどを自らの支配下においている。また、中国によって統治されている地方は、アクサイチンとして知られており、加えて1963年にカラコルム回廊(克里青河谷)を統治下においている。

インドは同地をめぐってパキスタンと1947年、1965年、1971年の三度(印パ戦争)、中国とは一度戦争(中印国境紛争)している。1990年以来、ジャンムー・カシミール州は、ラシュカレトイバなどの分離独立派とインド軍の衝突が繰り返され、数千人規模の死者を出している。

◎ジャンムー・カシュミール藩王国(ジャンムー・カシュミールはんおうこく、英語:Princely state of Jammu and Kashmir)とは、北西インド、カシュミール地方(現ジャンムー・カシミール連邦直轄領及びラダック連邦直轄領とアーザード・カシュミール)に存在した、イギリスによって創設されたヒンドゥーの藩王国(1846年 - 1947年)。首都はジャンムー、シュリーナガル。

歴史
1846年、ジャンムーの領主であるラージプート、グラーブ・シングは、第一次シク戦争でイギリスに味方し、講和に尽力した。グラーブ・シングは第一次シク戦争の講和条約ラホール条約締結後、アムリトサル条約を締結し、イギリスよりシク王国から割譲されたカシュミールを与えられ、ジャンムー・カシュミール藩王国が成立した。

1947年8月15日、インド・パキスタン分離独立によって、それぞれ藩王国はいずれかの側に帰属することを迫られていた。

しかし、カシュミール藩王ハリ・シングは自身がヒンドゥー教徒、対して住民の80%はイスラム教徒という微妙な立場にあり、帰属を先延ばしにしていた。

だが、パキスタンが武力介入してきたことで、同年10月26日にカシュミール藩王はインドへの帰属を表明した。また、同時にインド政府に派兵を求めた。

これが第一次印パ戦争(印パ戦争)の発端で、以後、第二次印パ戦争、第三次印パ戦争、カールギル紛争(英語版)まで争っている。今現在もこの藩王国の領土はインド・パキスタンの係争地である。


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0186〜0237 開目抄 0199:03〜0199:11 第23章 華厳・真言の謬解を挙ぐ

講義

また、「われはいっさいの本初なり」とは、大日経第三巻転字輪漫陀羅行品の文である。義釈九には「本初とはすなわち寿量の義である」といっている。これもまた大なる誤謬で「一切本初」とは法身本有の理に約していった言葉である。玄私七には「本有の理に帰す故に本初と云う、本有の仏性を名けて自覚となす」といっている。
 要するに、華厳・真言のやからが天台の教えをねたんで我見に執着して「あるいは釈迦・仏道を成じおわって不可思議劫を経るを見る」の文および「われはいっさいの本初なり」の文を、無理に一念三千の出処にして、一念三千の法門を盗み、法華経にすぐれたりと説かんとするのを明かされたのである。


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