◎ローマ大火(ローマたいか)は、西暦64年7月19日、皇帝ネロ時代のローマ帝国の首都ローマで起こった大火災を指す。
●ネロとキリスト教
この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教徒弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えた。ネロはキリスト教の一般信徒を多数処刑した最初の皇帝であり(使徒の処刑はそれ以前の皇帝の時代でもあった)、火葬で肉体を損なうと天国へ行けないと考えるキリスト教徒を火刑に処したため、また、ネロの治世にキリスト教の聖人パウロが殉教した伝説があるため、暴君、反キリストの代名詞となった。
◎長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。
特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。
◎反自由民主党票が野党第一党の日本社会党ではなく、保守系新党に流れ、自民党と社会党の対立構造からなる「55年体制」を終焉させた選挙だった。
◎マンデラは1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれた。少年時代には、首長から、部族社会の反英闘争の歴史や、部族の首長が持つべきリーダーシップや寛容の精神を聞いて育った。この時の経験が、彼の反アパルトヘイト運動を根底から支えた[3]。メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォートヘア大学で学ぶ。在学中の1940年には、学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。また、その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。
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0186〜0237 開目抄 0198:09〜0199:03
第22章 法相宗の謬解を挙ぐ
この宗のいわく、始め華厳経から終り法華・涅槃経にいたるまでのいっさいの経中で、声聞・縁覚・菩薩の三乗に進む性分のない、すなわち無性有情の者と、二乗と決定して永久に成仏することのない決定性の二乗は、永久に成仏できないと釈尊は説いている。仏語に二言はあるべきでないから、一度永久に成仏せずと定めた以上は、たとえ日月が地に落ちようとも大地が反覆して天になろうとも、これを変え改めて成仏するなどと説くわけがない。そうであるから法華経・涅槃経の中にも、爾前の経々が嫌う無性有情の者と決定性の者を正しく指して、成仏するとは説かれていない。まず眼を閉じて考えてみよ。法華経・涅槃経において、決定性の者と無性有情の者がまさしく成仏するならば、無著や世親ほどの大論師および玄奘や慈恩ほどの三蔵人師がこれを見ないわけがあろうか。これをその著書に載せないわけがあろうか。これを信じて伝えないわけがあろうか。弥勒菩薩に会って質問しないわけがあろうか。汝は法華経の文に依って二乗作仏と唱えるようであるが、じつは天台や妙楽や伝教の間違った独りよがりの見解を信受してその見解をもって経文を見るゆえに、爾前は二乗不作仏、法華は二乗作仏であって、その内容は水火のごとくあいいれないものと思っているのである、と。
弥勒菩薩
弥勒に二義ある。?未来仏と信仰される菩薩。一生補処の菩薩といわれ、兜率天の内院に住み、釈尊滅後五十六億七千万年後に仏として再びこの世界に登場し衆生を救うとされる。?瑜伽唯識の学問を基とする法相宗の開祖。梵名マイトレーヤ(Maitreya)。3〜4世紀、または4〜5世紀頃の人とされる。摂大乗論を著した無著は兜率天に上り弥勒菩薩に教えを受けたと伝えられ、弥勒は未来仏と信仰される弥勒菩薩と同じ存在とみられた。よって法相宗の本尊は唯識曼荼羅であり、弥勒菩薩でもある。
決定性の二乗
決定性とは、決定種性といって、爾前経で声聞・縁覚の二乗は、六道へも、菩薩・仏界へも絶対に出ることができないとした。この二乗をさして決定性とよんだ。法相宗はとくにこれを強調し、法華経とは全く逆に一乗方便、三乗真実と立てる。諸法実相を説いて十界の平等を説く法華経は方便と邪義を立てるのである。