◎創価教育学会を創立
北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)を卒業した後、小学校の教員となり、教育者の道に進みます。そして1901(明治34)年に上京し、その2年後に『人生地理学』を発刊します。
東京でも、小学校長を長く務めるなど、一貫して教育者としての道を歩んだ牧口先生は、1928(昭和3)年、日蓮大聖人の仏法と出会います。求め続けていた“人間主義の哲学”に触れた牧口先生は、日蓮仏法の信仰者の道を歩むことを決意。「今こそ、長年温めてきた教育学説を世に問おう」と、1930(昭和5)年11月18日に『創価教育学体系』第1巻を発刊します。そしてこの日が、創価学会(当時、創価教育学会)の創立記念日の淵源となったのです。
軍国主義との不屈の闘争
次第に戦争へと傾斜していく軍部政府は、思想統制に乗り出し、国民に国家神道を強制していきますが、牧口先生は、信教の 自由と日蓮大聖人の仏法の信仰を貫き通すため、これを拒否します。その結果、1943(昭和18)年7月6日、治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕・投獄 されました。
牧口先生は、担当の検事にも仏法を説いて聞かせるなど、獄中にあっても決して信念を曲げることはありませんでした。そして、逮捕から1年4か月が過ぎた翌44年の11月18日、牧口先生は、栄養失調と老衰のため、巣鴨の東京拘置所で尊き殉教を遂げました。73歳でした。
牧口先生が何ものをも恐れず貫いた“不屈の精神”と“正義の闘争”は、第二代会長戸田先生、第三代会長池田先生に受け継がれ、創価学会の永遠の原点となったのです。
コラム
子どもへの“慈愛”あふれる“実践の人”
初代会長牧口先生が、その教育理論をまとめた『創価教育学体系』は、発刊当時“現職の小学校長が書いた教育理論”として画期的なものでした。牧口先生は、書斎で研究に専念する学者ではなく、常に教育現場の第一線に身を置いた“実践の人”だったのです。
経済的に恵まれない家庭の子どもたちのためにつくられた特殊学校の校長を務めた時、牧口先生は、弁当をもってこられない子どもたちのために、ポケットマネーをはたいて、豆もちやにぎりめしなどの食事を用意しました。子どもたちが恥ずかしさを感じずに取りにいけるようにと、食事をそっと、用務員室に置いたのも牧口先生の配慮でした。
「どうすれば、子どもたちのためになるのか」??。常に、真剣に思索していた牧口先生は、日々、子どもたちと向き合い、考えたこと、気づいたことを広告紙の裏やメモ用紙にコツコツと書きとめていったのです。こうして書き溜められたメモが、やがて『創価教育学体系』の原稿となりました。
「創価教育学」は、まさしく“価値を創造する実践”の中から生まれた教育学なのです。
◎八旗(はっき・ジャクン・グサ、満州語: ?????
???? メレンドルフ転写:jakūn gūsa)は、清代に支配階層である満洲人が所属した社会組織・軍事組織のことである。また、この制度を指して八旗制と呼ぶ。
八旗は旗と呼ばれる社会・軍事集団からなり、すべての満洲人は8個の旗のいずれかに配属された。後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設される。八旗に所属する満洲人・モンゴル人・漢人は旗人(きじん、gūsa i niyalma)と総称され、清の支配階層を構成した。
◎1934年証券取引所法(1934ねんしょうけんとりひきじょほう、英:Securities Exchange Act of 1934)は、アメリカ合衆国における証券(株式、公社債等)の流通市場(二次市場)を規制する連邦制定法である。1934年6月6日に制定され、合衆国法典第15編第78a条 15 U.S.C. § 78a以下に法典化された、包括的な法律である。本法及び関連する各証券規制法によって、アメリカ合衆国における金融市場とその参加者に対する規制の基礎が形成されている。
◎ノルマンディー上陸作戦(ノルマンディーじょうりくさくせん、Invasion of Normandy)は、第二次世界大戦中の1944年6月6日に連合軍によって行われたドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦。正式作戦名「ネプチューン作戦」(en:Normandy landingsを参照)。なお上陸からパリ解放までの作戦全体の正式名称はオーヴァーロード作戦(Operation Overlord)。
◎1992年 衆参両院 PKO法案 社会党、共産党、連合参議院、社民連など 五泊六日で抵抗するも失敗。共産以外は一部の牛歩に参加せず。連合参議院は民社系議員は参加せず(民社党は賛成)。