◎池田大作研究/佐藤優氏
〜世界宗教への道を追う〜22回
炭労との紙上討論会
宗教への無認識が露呈
「三林さん、あなたが信仰するのは勝手だが、布教活動は、今後、やめていただきたい。組合員は、いい迷惑です」
書記長が展開する、信仰は自由だが布教はやめろというのは、スターリン主義(ソ連型マルクス主義)の宗教観そのものだ。
宗教には二つの形態がある。
第1は、宗教は制圧の一部分に過ぎないという形態だ。
第2は、宗教がその人の生活の全てを律するという宗教観だ。筆者が信じる改革派(カルバン派)系のプロテスタンティズムや創価学会がそのような形態だ。
第2の形態の宗教を信じる人にとっては、信仰即行為である。信仰と布教を切り離すことはできない。レーニンやスターリンは、布教の自由を禁じるのみならず、無神論宣伝の自由をソ連憲法で保障することによって、事実上、信仰の自由を規制した。炭労はスターリン主義の宗教観に基づいて、創価学会に鎮圧を加えている。ソ連の無神論宣伝の日本版が、「創価学会壊滅闘争」である。
「何を言うんです。布教こそ信仰の生命ですよ。憲法だって布教の自由は保障されている。炭労は、それを妨害するんですか。憲法違反になりますよ。私たちの布教は、この世から不幸な人びとを一人でも救うためにやっているんです。これをやめるわけにはいきません。
また、あなた方は、対決を決議したというが、いったい学会と、どのように対決するつもりなんですか」
組合長が言った。
「三林さん、こうしていても埒が明きませんね」
「じゃあ、どうしたらいいと思います?」
「この際、あらためて正式な場所を設けて、話し合おうじゃないですか」
北海道新聞社の支局長は、はからずも、この会見の立会人になってしまった。
夕張炭労の幹部は、公開討論をおこなえば自分たちが勝利すると思い込んでいた。
ドイツのプロテスタント神学者のディートリヒ・ボンヘッファーは、「究極的なもの」と「究極以前のもの」を区別する必要性を説いた。政治や経済は「究極以前のもの」だ。
………
創価学会員にとって組合活動は「究極以前のもの」で、宗教は「究極的なもの」だ。この違いが炭労幹部には理解でなきなかったのだ。