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2020.5.21-2

2020年05月21日 (木) 01:14
2020.5.21-

【寸鉄】
学会は組織の根底に苦楽
を分かち合う絆がある―
学長。今こそ連携を密に
     ◇
岩手「女性の日」「青年部
の日」。今日も励ましの声
掛け。福光の歩みを益々
     ◇
若人の人間革命で世界は
変わる―博士。発想力と
行動力で希望の時代開け
     ◇
感染症対策、気の緩みが
出る時。「身体的距離」の
確保を。絶対に油断せず
     ◇
持ち帰り弁当等の食中毒
に注意。放置すれば菌は
増殖。早めの消費を徹底

◎名字の言 
哲学者・ショーペンハウアーの「ヤマアラシのジレンマ」
ヤマアラシが寒さを防ぐため、互いの体を近づける。ところが、自分のハリで相手を傷つけてしまう。仕方なく離れると、今度は体が凍えてしまう。ドイツの哲学者・ショーペンハウアーが考えた「ヤマアラシのジレンマ」という話である▼悩んでいる人に直接会って励ますことができないなど、新型コロナウイルスの感染拡大によって、私たちは経験したことのないジレンマに遭遇している。言葉も、その一つ。人によって捉え方が大きく異なる▼「ステイホーム」を促す記事を書いていても、そのマイナスの影響を受ける飲食業や観光業に携わる同志の顔が思い浮かぶ。「希望」とつづって、血が通った言葉かどうか、何度も自問する▼岩手日報社の代表取締役社長・東根千万億氏は、「人の痛みを知り、人の有り難みを知ると、人を思う想像力が深まります。それが価値を生む創造力を培う糧になると思います」(本紙2019年2月9日付)と述べている。他者の痛みを知ろうとの姿勢なくして、人の心に届く言葉は生まれまい▼冒頭の「ヤマアラシのジレンマ」は、試行錯誤を繰り返しながら、最終的に痛くも寒くもない適度な距離を見つけ出す。諦めず、弛まず――そこから、明日への「希望」が輝き始めると信じる。(澪)

●アルトゥール・ショーペンハウアー(独: Arthur Schopenhauer,1788年2月22日 - 1860年9月21日)
ドイツの哲学者。主著は『意志と表象としての世界』
(Die Welt als Wille und Vorstellung 1819年)。
ショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも。

●ヤマアラシのジレンマ
鋭い針毛を持つヤマアラシは、互いに寄り添い合おうとすると、自分の針毛で相手を傷つけてしまうため、近づけない、というジレンマ。ショーペンハウアーが寓話として用いた表現とされる。

◎『古今和歌集』(こきんわかしゅう)
平安時代前期の勅撰和歌集。全二十巻。勅撰和歌集として最初に編纂された。略称を『古今集』(こきんしゅう)という。

紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期から中期にかけての貴族・歌人。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。官位は従五位上・木工権頭、贈従二位。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。

幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという[注釈 1]。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。

延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。

◎薩摩藩志士粛清事件
文久2年4月23日(1862年5月21日)に薩摩藩の事実上の指導者・島津久光が薩摩藩尊皇派を排除した事件。「寺田屋騒動」とも言う。

1862年5月21日の寺田屋事件
寺田屋騒動とも呼ばれるこの事件は、薩摩藩の尊皇派が当時の薩摩藩主の父で事実上薩摩藩の実権を握っていた島津久光によって鎮撫された事件のことです。

寺田屋薩摩藩といえば、尊皇派というイメージがありますが、この当時久光には倒幕の意志はありませんでした。

公武合体派であった久光は、秩序を重んじる厳しい性格だったようで西郷隆盛や村田新八、森山新蔵を捕縛し、大阪から藩へ帰るように命じていました。

久光は1862年4月16日に入京し、朝廷から志士鎮撫の命を授かっていました。

あまりにも志士たちの思惑と違う展開に驚いた薩摩藩の過激派は憤激し、諸藩の尊王派の志士たちと共謀して関白・九条尚忠と京都所司代・坂井忠義を襲撃し、その首を久光に報じることで蜂起を促すことに決めます。

この襲撃にあたり、薩摩藩の長屋をでて伏見の寺田屋に集まることを計画していました。

この計画の噂を聞いていた久光は側近たちを次々と派遣し、説得を試みますがことごとく失敗。そのため、剣術に優れた者たちを集めた鎮撫使を京都へ派遣しました。

23日夜寺田屋に到着した鎮撫使たちは、首謀者である有馬新七に面会を求めて議論を交わしましたが、決着はつかず薩摩藩同士の激しい斬り合いに発展しました。

結果、計画に加わったものの多くが命を落とし、薩摩藩の尊皇派は大きなダメージを受けました。この事件により、朝廷の久光に対する評価は大きく上がることになります。


◎パリ・コミューン(仏: Commune de Paris、英: Paris Commune)は、フランス・パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、同時期にフランス各地で蜂起したコミューン(仏: la Commune)のうち普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言した1871年のパリのコミューン(仏: La Commune de Paris 1871)について説明する。

このパリ・コミューンは約2か月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。マルセイユ(1870年9月5日宣言)、リヨン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズ、ナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブル、リモージュなどの、7つの地方都市でも同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された[1]。

◎スハルト(Soeharto, Haji Muhammad Soeharto[2] 1921年6月8日 - 2008年1月27日)
インドネシアの軍人、政治家。最終階級は陸軍少将。

第2代大統領(1968年 - 1998年)。30年以上在任し、開発独裁政権として同国の工業化を推し進めたが、アジア通貨危機後の政治不安、社会不安を沈静化できず、大統領職を辞任した。在任中から、身内への不正な利益供与などについての批判を集めており、辞職後、その法的責任を問われたが、高齢、健康問題を理由に刑事訴追は取り下げられた。


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