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2020.4.1-2

2020年04月01日 (水) 00:45
2020.4.1-2

【寸鉄】
「いよいよ道心堅固に」
御書。苦難に直面する程、
われらは祈りと決意強く
     ◇
教育本部の日。未来の宝
育む聖業に献身する友。
創価三代の思想は脈々と
     ◇
4月は新聞閲読月間。信
心の息吹届ける無冠の友
に感謝。呉々も無事故を
     ◇
肺炎、50歳未満の15%が
中・重症化。全世代が要警
戒。一人一人が当事者だ
     ◇
改正健康増進法があす施
行。望まない受動喫煙を
防止。配慮深き社会皆で

【名字の言】
「きょうも あしたも あなたは たくさんの ドアを あけていく」『たくさんのドア』(主婦の友社)

「あなたは まだ しらない じぶんが どれほど つよいかを」
「はるばるとした おおきなものに あなたは まもられている なにがあろうと」

4月9日まで絵本週間。一冊の絵本が、何げない毎日に意外な潤いを与えてくれることがある。子どもたちの“心田”に夢や希望、勇気の種をまき、親子で「心の宝」を育む契機にしたい。

◎その昔、ヨーロッパでは3月25日を新年とし、4月1日まで春の祭りを開催していたが、1564年にフランスのシャルル9世が1月1日を新年とする暦を採用した。これに反発した人々が4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、馬鹿騒ぎをするようになったのがエイプリルフールの始まりとされている。

また、インドでは悟りの修行は春分の日から3月末まで行われていたが、すぐに迷いが生じることから、4月1日を「揶揄節」(やゆせつ)と呼んでからかったことによるとする説もある。

◎元々日本では、特に入学の時期は定められておらず、年中入学可となっているのが普通だった。1886(明治19)年10月に、高等師範学校が学年暦を4月1日からと定め、1888(明治21)年から全国一斉にこれにならうようになった。ただし、大学や高等学校では欧米の習慣に合わせて9月に新学期を始めていた。

4月1日生まれの人は、前年度の3月生まれの人と一緒に入学することになる。これは、学校教育法で保護者は、子女の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初から(中略)就学させる義務を負う。と規定しているためである。「年齢計算ニ関スル法律」では年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算スとし、「民法」第143条では年を単位として期間を定めた場合には、起算日の応答日の前日に期間が満了することとしている。つまり、4月1日に生まれた人は、その6年後の3月31日をもって五歳の期間が満了することになり、その翌日の4月1日に始まる学年から小学校に入学するのである。

◎江戸時代までは、暦年とは別の「年度」というものはなく、1月から12月までで会計を行っていた。しかし、明治維新の後、政府の財政が苦しく、暦年と合わせることができなくなって「年度」が作られた。その為、当初は年度の始期が頻繁に変えられた。1886(明治19)年に、現在の4月から翌年3月までとなった。

会計年度の始期が4月1日となったのは、秋の収獲後の徴税の都合の為であるとされている。また、イギリスでかつて3月25日を新年としており、金銭の精算に一週間の猶予が認められていたからとする説もある。


【一年前】
◎『魯迅・池田大作桜だより』
「これ昨年の。今年の分も楽しみにしています?」
「製作中です?」

上海魯迅記念館「魯迅・池田大作桜」
中国40年の同級生
「何度も挫折しそうになった時には、先生との絆を思い起こし、先輩との会話に勇気づけられてきました」
友の熱い思いに目頭が熱くなりました?
??

◎靴下はとても良くて、好きで、お父さんに感?します?
??
きょう着た?
?

中国人は日本製のストッキングが大好き?
目の前には妻と娘………??
思わずクスッ
娘「?」、妻も「?」
?

◎べっぴんさん最終回
所願満足の人生!!

◎まんぷく最終回
歩行者天国でまんぷくヌードルが完売して最終回。やり切った人はやっぱり違う?
                 
                   
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

開目抄 
第五章 内外相対して判ず 01880.06〜0188.13

さらに、三惑の根本であり、いっさいの迷い、煩悩の根源たる元品の無明は、いかにすれば断つことができるか。日蓮大聖人の教えを拝するとき、御義口伝にいわく「一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり」(0725-第一信解品の事-03)と。
 またいわく「元品の無明を対治利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云」(0751-15)と。
 ゆえに信心こそ元品の無明を断ち切り、八万四千のいっさいの煩悩を即菩提に転じ、人生を遊戯する絶対幸福生活の根源であることを知らなくてはならない。


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