◎根岸短歌会(ねぎし たんか かい)は、正岡子規が主催した短歌結社。名前は子規庵の住所(東京下谷上根岸)に由来し、子規庵での歌会から始まり、後にアララギ派に発展する。
当時の正岡子規は、闘病生活の傍ら新聞「日本」や俳誌「ホトトギス」「心の花」などで活動、俳句や短歌の改革を唱え、俳句の近代化に成功した。そして1898年(明治31年)に「歌よみに与ふる書」を発表、万葉への回帰と写生による短歌を提唱して、写実的な短歌の実践を試みる。
根岸短歌会は1899年(明治32年)3月14日に子規庵で正岡子規、岡麓、香取秀真、山本鹿洲、木村芳雨、黒井怒堂の6名で開かれた歌会を源流とし、同郷の後輩である高浜虚子や河東碧梧桐らにより結成され、伊藤左千夫や長塚節らも参加した。
子規の没後、1903年(明治36年)に機関誌「馬酔木」(1908年終刊)が発行され、根岸短歌会参加者に加え島木赤彦や斎藤茂吉らも参加し、これが歌誌「阿羅々木」(後のアララギ)へと発展していくことになる。
◎東京渡辺銀行(とうきょうわたなべぎんこう)は、かつて日本に存在した銀行。昭和金融恐慌により経営が破綻した。
二十七銀行
1877年(明治10年)に第二十七国立銀行として設立され、1904年(明治37年)に二十七銀行と改称。この時、資本金額を30万円から100万円に増資。
1920年(大正9年)2月の好況期に行名を東京渡辺銀行と改称し、500万円に増資した。
だが、余りの放漫経営が続いたことから、関東大震災後には極端に経営が悪化。辛くも資金繰りに成功したが、1927年(昭和2年)3月14日に第52回帝國議会で大蔵大臣片岡直温が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました」と失言。これを口実に銀行は休業を決断する。姉妹行の「あかぢ貯蓄銀行」(1913年(大正2年)に福岡から移転、改称した、元 豊岡貯蓄銀行)も同時に閉鎖し、経営破綻した。
昭和金融恐慌(しょうわきんゆうきょうこう)は、日本で1927年(昭和2年)3月から発生した経済恐慌である。
単に金融恐慌(きんゆうきょうこう)は本来は抽象的に経済的現象を指す言葉だが、日本では特に断らない場合はこの1927年(昭和2年)の恐慌を指すことも多い。
昭和恐慌とは異なる。
昭和恐慌(しょうわきょうこう)は、1929年(昭和4年)10月にアメリカ合衆国で起き世界中を巻き込んでいった世界恐慌の影響が日本にもおよび、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れた、戦前の日本における最も深刻な恐慌。
第一次世界大戦による戦時バブル(=日本の大戦景気)の崩壊によって、銀行が抱えた不良債権が金融システムの悪化を招き、一時は収束するものの、その後の金本位制を目的とした緊縮的な金融政策によって、日本経済は深刻なデフレ不況に陥った。
◎1953年(昭和28年)2月28日の衆議院予算委員会で、吉田茂首相と社会党右派の西村栄一議員との質疑応答中、吉田が西村に対して「バカヤロー」と発言したことがきっかけとなって衆議院が解散されたため、こう呼ばれる。
なお、「バカヤロー」と書くと大声を出したような印象を与えるが、吉田は席に着きつつ非常に小さな声で「ばかやろう」と呟いたのみで、それを偶然マイクが拾い、気づいた西村が聞き咎めたために騒ぎが大きくなったというのが実態である。
「バカヤロー解散」の遠因は、吉田内閣の通産大臣池田勇人にあり、池田が「中小企業の一部倒産もやむを得ない」「貧乏人は麦を食え」など、度重なる問題発言を繰り返し、野党から通産大臣不信任決議案を提出され可決。窮地に追い込まれた吉田が、衆議予算委員会における執拗な質問に該当発言を連発したものである。
【一年前】
◎朝の食卓
娘「昨日はお父さんが帰って来る前、お父さんとお母さんの結婚する前のことを話しよったとよ」
妻「?女子力」
娘「お父さん、お母さんの結婚する前の彼氏さんの写真見たことがある?」
私「?………」
妻「あらす」
娘「かっこよかったね?」
妻「お父さんと結婚したから幸せだった」
私「言うことなし」
?
【二年前】
聖教新聞を見て、
改めて本当に凄いことです。
感動します。
☆出藍の誓い
その広布の大河の流れが
歴史の必然であるか否かを
君よ問うなかれ
汝自身の胸中に
自らの汗と労苦により
広布を必然たらしめんとする
熱情のありや無しやを 常に問え
?噛み締めています。
もっと題目をあげていこう??
【三年前】
今日は地区のリレー唱題会の当番で久しぶりに1時間、多宝会のおばあちゃんと二人で、挙げることが出来ました!?
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開目抄 0186〜0237
第三章 仏教の初門となすを明かす 0186.12〜0187.07
本文
此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して 或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり、礼楽等を教て内典わたらば戒定慧をしりやすからせんがため・王臣を教て尊卑をさだめ父母を教て孝の高きをしらしめ師匠を教て帰依をしらしむ、妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」等云云、天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」等云云、止観に云く「我れ三聖を遣わして彼の真丹を化す」等云云、弘決に云く「清浄法行経に云く月光菩薩彼に顔回と称し光浄菩薩彼に仲尼と称し迦葉菩薩彼に老子と称す天竺より此の震旦を指して彼と為す」等云云。
☆『礼楽前きに馳せて真道後に啓らく』