Contents
RSS 2.0

ブログ blog page

2020.1.20-2

2020年01月20日 (月) 01:03
2020.1.20-

◎緋文字 Der.Scharlachrote Buchstabe
監督:ヴィム・ヴェンダース
出演:ゼンタ・ベルガー ハンス・クリスティアン・ブレヒ   
1月19日(日)14:00
1973年/16ミリ/カラー/89分/西ドイツ/日本語字幕付き
©Wim Wenders Stiftung
17世紀後半のアメリカ。大西洋岸の清教徒(ピューリタン)の村。村で姦通をした女性へスタの裁判が行われる。その日チリングワースという医者が村にやって来る。彼はかつてヨーロッパでヘスタの夫であり、誰が不義の相手かを見抜くのだった。ナサニエル・ホーソーンの小説の映画化。新大陸に渡って来たピューリタンたちの宗教的戒律の厳しさの中で、不義の子を産んでも卑屈さを見せずに新しい人生を生きようとするヘスタの物語。

『緋文字』(ひもんじ、英:?The Scarlet Letter)は、ナサニエル・ホーソーンによって執筆され、1850年に出版されたアメリカ合衆国のゴシックロマン小説であり、多くの場合ホーソーンの代表作であると考えられている。17世紀のニューイングランド(主にボストン)のピューリタン社会を舞台に、姦通の罪を犯した後に出産し、その父親の名を明かすことを拒み、悔恨と尊厳の内に新しい人生を打ち建てようと努力する女性ヘスター・プリン(英語版)の物語を描いている。この物語を通じて、ホーソーンは神の赦しと律法主義、罪悪についての問題を模索している。


◎ナサニエル・ホーソーン(ナザニエル・ホーソーン、Nathaniel Hawthorne 1804年7月4日 ? 1864年5月19日)
アメリカ合衆国の小説家。日本語では「ホーソン」と表記されることもある。
マサチューセッツ州のセイラムに生まれる。

父方の祖先である初代ウィリアム・ホーソーンはクエーカー教徒迫害に関与し、二代ジョン・ホーソーンはセイラム魔女裁判の判事を務めており、また、母方の祖先であるニコラス・マニングの姉達が近親相姦の嫌疑をかけられ迫害されると言う過去を持つため、善と悪や罪を扱った宗教的な内容の作品が多い。

彼が『緋文字』を発表し注目を集め始めていたころ、アメリカでは市場主義経済が発達し文学作品も「商品」としての色合いが強くなる。これにより文学の芸術的価値より大衆の評判が重要視され始めホーソーンはこのギャップに苦しむことになる。実際に彼の作品である『七破風の館』では登場人物にこの心境を投影してうわべの作品が大衆にはうける、といったことを訴えており、芸術家としての作家という考えを持っていた彼がその才能を存分に発揮できないジレンマや葛藤が認められる。


◎寸鉄
『新・人間革命』は人生の
価値を高めてくれる一書
―作家。学び成長の糧に
     ◇
一対一が広布伸展の鍵。
会合と個人指導の比率を
2対8に。今日から挑戦
     ◇
負けてたまるかと祈るの
だ―戸田先生。闘病の友
よ大生命力で蘇生の劇を
     ◇
70歳超えても働きたい―
60代の半数超。豊かな経
験は宝。生かす社会、皆で

【一年前】
◎本部幹部会
原田会長
「三類の強敵と戦い抜き、三障四魔を断破して、真の大利益・人間革命の真髄を把握されんことを希望する」

「仏法は勝負」
「法華経の兵法」
「悪は多けれど一善に勝つことなし」

原田会長・先生の話を聞いていて、
戦う気力がもりもりと???

帰ったら妻と娘はこたつで寝そべっている。
「このコップ類、上に持って行っとこか?」
………
娘「おー?お父さんが?」
妻「ほんなこっちゃん。本幹良かったろ??」
?

【二年前】
昭和16〜17年の大牟田の地図
我が家周辺は田んぼしかなく、県道からの川沿いの道もない………あとから出来たんだ?

事務所周辺………あ、これが今の国道………
横の道もない………
「日本館」とあるけど何かなあ………
(検索してもない)
?

【三年前】
大牟田は福島某の反逆の震源地で、今の「大山」の章を巡り、地区部長と様々、複雑な話をしながら回っておりました。
「ほんと酷かったなあ…でも学会はよー乗り越えて来たよ…今からも同じ!」


◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

開目抄 0186〜0237

三、背景

 文応元年(1260)7月、日蓮大聖人は立正安国論をもって、時の執権・北条時頼を諌め、邪法を禁じて正法を立て、国を安んぜよ、もしこれを聞き入れなければ、自界叛逆・他国侵逼の両難が起こると警告あそばされた。しかるに幕府はこれを聞かないばかりか、同8月27日には松葉ヶ谷の草庵を焼き討ちにし、翌弘長元年(1261)5月12日には、伊豆の伊東へ流罪にしたのであった。

 弘長三年、日蓮大聖人は赦されて鎌倉へ帰られたが、翌文永元年(1264)11月、安房へ行かれて小松原の法難にあわれるなど、大聖人に対する迫害は、年を経るごとに激しくなっていったのである。

 はたして、文応元年(1260)より満7年、文永5年(0268)正月、蒙古より牒状が到来し、立正安国論の予言的中は疑いのない事実となってあらわれたのである。幕府は、諸社寺に蒙古降伏を祈らせるなど、さらに謗法の罪を重ねたのである。この国家存亡の危急に対して、大聖人は十一通の御書をしたためて、幕府には迷妄をさますよう、また時の邪宗に対しては公場対決を厳しく迫られたのであった。10月11日のことである。

 しかるに、幕府はこの至誠の国諌を聞き入れないのみか、幕府要人の上郎、尼御前たちに取り入った念仏、真言、律等の諸宗の邪僧のことばに迷い、ますます激しい弾圧と迫害を日蓮大聖人およびその御一門に加えていったのである。


トラックバック

トラックバックURI:

コメント

名前: 

ホームページ:

コメント:

画像認証: