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強仁状御返事 0184〜0185
第二章 自他叛逼二難の予言と逢難を述べる
0184.05〜0185.02
講義
ここでは、今、日本国に自界叛逆難と他国侵逼難が起こっているのは、国家と仏法のなかに大きな誤りがあるからだと言われ、このことについては、大聖人は必ずこの大難が日本に起こることを予知され、我が身をも惜しまず訴えてこられたが、真言等の邪僧がたばかって讒言したためにかえって大聖人に次々と迫害が加えられたのであると仰せられている。
就中当時我が朝の体為る二難を盛んにす所謂自界叛逆難と他国侵逼難となり、此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに定めて国家と仏法との中に大禍有るか、仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を開き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の両難なり
ここで「大蔵経に引き向えて之を見るに」「一切経を開き見るに」と言われているのは、立正安国論に引かれている四経の文が、その代表的なものといえよう。これらの四経すなわち金光明経・大集経・薬師経・仁王経の文には、一国の王はじめ為政者が正法に背いているならば、種々の災いが起きると記されている。大聖人は「此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに」と仰せのように、自界叛逆と他国侵逼の二難が起きてくる原因を経文を照らして見ると「定めて国家と仏法との中に大禍有るか」つまり、国家と仏法の両方に大きな誤りがあり、それが原因であることが分かると言われている。仏法自体、正法に背いてしまっており、その正法に背く邪法を国家が信じ供養していることである。
そして、「仍つて予正嘉・文永二箇年の大地震と大長星とに驚いて」云々と仰せられているが、立正安国論奥書に「去ぬる正嘉元年太歳丁巳八月二十三日戌亥の尅の大地震を見て之を勘う」(0033-02)とあるように、大聖人が正嘉の大地震を見て同書を考えられたことは明らかである。
文永の大長星の場合は、立正安国論後述作の後に現れたもので、同じく奥書に「其の後文永元年太歳甲子七月五日 大明星の時弥此の災の根源を知る」(0033-03)とあるように、文永の大長星の出現によってますます御自身の主張の正しかったことを確信されたのである。
これは皆、「真言・禅門・念仏・持斎」すなわち、四宗の誤りによるとおおせであるが、立正安国論では、念仏のみを「一凶」とされている。この点については、災難の根源はすべての謗法にあることは、安国論に引証されている経文から明らかで、一つの典型として念仏一宗を特に指摘されたのであった。したがって元意は、ここで仰せのように四宗すべてが災難興起の因ということにある。
そして、安国論では「只今他国より我が国を逼む可き由・兼ねて之を知る」と仰せのごとく、必ずや他国からの侵逼の難があると見通されていたので、それを未然に防ぐため、明確に予言・警告されたのであり、その後も、幾度となく公場対決を訴え、また門下にも、話された。
しかし、真言・禅門・念仏者・律僧らが、種々の讒言をしたため、この大聖人の訴えは用いられず、そればかりか、民衆からも種々の迫害が加えられたと仰せられている。
「処処に於て刀杖を加えられ」について、上野殿御返事では、刀の難として文永元年(1264)11月11日の小松原の法難と文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難を挙げられ、杖の難としては特に竜の口法難で少輔房に法華経第5の巻で打たれたことを挙げておられる。
「両度まで御勘気を蒙る」とは、弘長元年(1261)の伊豆流罪と、文永8年(1271)の佐渡流罪である。また「剰え頭を刎ねんと擬する」が佐渡流罪の直前竜の口の法難であたることはいうまでもない。