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2019.12.5-3

2019年12月05日 (木) 04:05
2019.12.5-

【一年前】
●帰宅17時15分
妻「あら、早かったね」
私「うん、早(は)よう奥さんの顔見たくて」
「そうやろ………うまくなった上手口………」
?

●お歳暮のビール
娘「お父さん、ビールはどこから貰ったと?」
私「うん? お客さんからよ」
「お父さん、ビール飲む?」
「あんまし家では飲まんね」
「お父さん、ビール私飲んでいい」
「………?」
「冷やしていい?」
「いいよ」
「ありがとう、お父さん」
(娘が晩酌でビール飲むなんて………)
?

隣の会合から帰ってきて    
妻「お父さんと恵が一緒にこたつに寝とる………仲のよかね………前は喧嘩しよったとに………あ〜幸せ??」
   
【二年前】
「二乗地に堕して永不成仏の思を成す由見えたり法華已前の論なる事疑無し」
(当世念仏者無間地獄事109ページ)

?「二乗」にはなるなかれ?−−永不成仏?

「あんまり頭ばっかり使っとるとおかしくなる」
妻「お父さんのことやんね」
?


◎約30分にわたって行われた会見。
翌6日付「人民日報」には“池田会長夫妻と、
親密で友好的な話し合い”と写真入りで報道された。
(1974年12月5日、北京)
「50年前、桜の咲く頃に私は日本を発ちました」??19歳で留学した日本の思い出を、周恩来総理は懐かしそうに振り返った。
「もう一度、ぜひ桜の咲く頃に日本に来てください」と語る池田大作先生に周総理は言った。「願望はありますが、無理でしょう」??周総理は癌におかされ、闘病中の身であったのだ。
1974年12月5日の夜。総理からの会見の要望は、2度目の訪中で北京に滞在していた池田先生に、突然伝えられた。総理の病状を心配した池田先生は、会見を固辞。しかし、総理の「強い希望」であるとの説得に促され、会見場となった入院先の三〇五病院に向かった。総理は玄関で立って待っていた。「よくいらっしゃいました。池田先生とは、どうしても、お会いしたいと思っていました」

周恩来(1898年〜1976年)
中華人民共和国元国務院総理
中国・江蘇省生まれ。1917年、日本留学。帰国後、五・四運動のリーダーとして活躍。長征を経て、1949年の中華人民共和国成立とともに政務院(後の国務院)総理兼外相に就任し、内政・外交を担当した。インドのネルー首相との平和5原則、バンドン会議など平和外交を推進。72年の日中国交正常化に尽力した。
 

◎ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト[1](ドイツ語: Wolfgang Amadeus Mozart、洗礼名:ヨハンネス・クリュソストムス・ウォルフガングス・テオフィルス・モザルト [Johannes Chrysostomus Wolfgangus Theophilus Mozart]、1756年1月27日 - 1791年12月5日)はオーストリアの音楽家[2]。ハイドン、ベートーヴェンと並んで古典派音楽、ウィーン古典派を代表する一人である。


◎カティリナ弾劾演説(Catiline Orations)は、紀元前63年にルキウス・コルネリウス・スッラの副官であったルキウス・セルギウス・カティリナのクーデター計画に対し、マルクス・トゥッリウス・キケロが告発、首謀者であるカティリナに対する弾劾演説である。ローマ最高の弁護士として名声の高かったキケロの演説の中でも、特に名演説として知られている。

演説は、全部で4つの演説で構成され、一貫してカティリナ及びその一派の陰謀に対する糾弾とローマ市外への追放を含め厳罰をもってあたることを主張した。

第1演説:元老院議会での演説(紀元前63年11月8日)
第2演説:市民集会での演説(紀元前63年11月9日)
第3演説:市民集会での演説(紀元前63年12月3日)
第4演説:元老院議会での演説(紀元前63年12月5日)


◎203高地(にひゃくさんこうち、にいまるさんこうち)は、中国北東部の遼東半島南端に位置する旅順(現在の大連市旅順口区)にある丘陵である。

1904 - 1905年の日露戦争ではロシア海軍の基地のあった旅順港を巡る日露の争奪戦による激戦地となった場所。

御前会議を開いてまで決定した「203高地を攻略する」という決定と、大本営からの圧力(本来、第3軍は満州軍の所属で、大本営の直接指揮下にない)に第3軍が屈し1904年11月28日に203高地攻撃を開始する。一度は奪取に成功するもロシア軍が反攻して奪還され、一進一退の激戦となる。

結局12月5日に203高地は陥落する。観測点を設置し港湾への砲撃を開始したが、ほとんどの艦艇は黄海海戦での損傷が直っていなかったことや、要塞防衛戦に搭載火砲や乗員を出していたので戦力としては無力化しており、自沈であったことが戦後の調査で判明している。第三軍も203高地を攻略するとすぐに配置を元に戻して東北方面の攻撃を再開し、ロシア軍も旅順艦隊が自沈しても抵抗を続けた。結果的に要塞の予備兵力が消耗枯渇したロシア軍は、続く要塞正面での攻防で有効な迎撃ができず、それでも1か月ほど頑強に抵抗した。だが正面防御線の東鶏冠山保塁、二龍山保塁などが相次いで陥落、翌1905年1月1日に要塞は降伏した。

結果的に203高地の占領は戦略的にも戦術的にも日本側に寄与しなかった。旅順艦隊は黄海海戦と、大弧山や海鼠山からの観測射撃で大損害を被っていたが、これを修理する設備は旅順港にはなかった。
        
1980年、日露戦争の旅順攻囲戦における203高地での日露両軍の攻防戦を描いた『二百三高地(にひゃくさんこうち)』という東映製作の日本映画が公開された。1981年にはテレビドラマ化もされている。
          
◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

一昨日御書 0183〜0184

尋問は、大聖人が、故最明寺入道時頼と極楽寺入道重時を無間地獄に堕ちたといい、建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払えと主張し、道隆や良観の頸をはねよと言ったかどうか、というものだったようである。
 大聖人は「上件の事・一言もたがはず申す」(0911-07)としたためられた。ただし、最明寺殿・極楽寺殿が地獄に堕ちたと言ったということは、そらごとであり、謗法の悪法に帰依して正法を信じなければ地獄に堕ちつという法門は、最明寺殿・極楽寺殿が存命の時から申していたことである。と反論されている。
 そして「上件の事どもは此の国ををもひて申す事なれば世を安穏にたもたんと・をぼさば彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ、さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば国に後悔あるべし」(0911-09)と、良観等と公場対決を求められ、それをせずに一方的に彼等の言い分を用い、大聖人を理不尽に迫害して、流罪・死罪にしようとすることがあれば、必ず自界叛逆難と他国侵逼難が起こって後悔するであろう、と強く諌められた。


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