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2019.12.4-2

2019年12月04日 (水) 01:18
2019.12.4-

【一年前】
●今日は朝から咳が出て………
熱はないのですが(夜、図ったら36.5℃)、喉が乾燥し咳がひどい。ミキプールの原液を口に含みながら凌いでいました。
(咳が出た時はこれが一番)
熱がないのが幸い。
妻「たまには大人しゅうてよかよ。
どら?………?熱はなかね」
「手の柔らかかね?久しぶり」
?

●妻「ユニクロ買ってよ??」
妻と娘は久留米で「未来部合唱祭」。
私はマッサージ。
夕方4時半にゆめタウンのユニクロで待ち合わせ。

私もジーンズ?と普段靴?を買いました。
ジーンズを買う際にウェストを図ったらなんと94cm。?
10点くらいで締めて20,000円
「今日はクリスマスプレゼントと来月の私の誕生日を兼ねてよかたい。安上がりの奥さんでよかったね」
?

妻「夕飯はどげんする?」
私「奥さんの手料理が一番ばってんね」

中華レストランで久しぶりにチャーハンとラーメン食べたけど、「炭水化物」はもうあまり体が受け付けなくなっている。

【二年前】
●山岡荘八『徳川家康』第一巻あとがき
「新しい哲学によって人間革命がなしとげられ、その革命された人間によって社会や政治や経済が、改められたときにはじめて原子科学は『平和』な次代の人類の文化財に変わってゆく−−」
(聖教12/1師弟凱歌の物語)

ちょうど今24巻を読んでいる最中ですので、感動しました。私も第一巻のあとがきを読んだときから注目していました。

☆先生と呼吸が合っている感じ???
             
               
◎観客は1000万人を突破し、1997年に『もののけ姫』に抜かれるまで最高の配給収入を記録していた。
E.T.はExtra-Terrestrialの略で「地球外生物」のことである。

◎1960年 - 都営地下鉄1号線(現在の都営地下鉄浅草線)押上駅 - 浅草橋駅間が開業し、京成電鉄と相互乗入れ開始。

◎韓日合邦を要求する声明書(かんにちがっぽうをようきゅうするせいめいしょ)は、1909年12月4日、大韓帝国で親日団体一進会が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った大韓帝国と日本の対等合併を要望する声明書である。韓日合邦建議書(かんにちがっぽうけんぎしょ)ともいう。

概要
1904年、李容九・宋秉畯・尹始炳が中心となって一進会が設立された。会長は当初は尹始炳であったが、すぐに李容九に代わった。一進会はアジア主義と大東合邦論を掲げ、アジアが団結して欧米帝国主義の侵略を阻止すべきであると主張。さらに李容九は、日本と大韓帝国の軍事同盟が、ロシアに対抗し、大韓帝国の富国強兵を図る方法であると主張した。1906年、李容九は「韓日合邦」をはじめて主張し、同年、天道教(東学)を脱退して侍天教を設立し、その教祖となった。1909年10月26日、併合反対派だった前統監伊藤博文がハルビン駅で暗殺されたのち、李容九は同年12月4日、一進会員との連名で、韓国皇帝純宗、統監曾禰荒助、首相李完用に対し声明書を提出した。

この声明書の中で、「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」[1]と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、韓国と日本が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。

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一昨日御書 0183〜0184

そこで良観らは、大聖人を誹謗・中傷する讒言を、幕府の有力者や、その夫人等に対して執拗に行った。その様子を大聖人は「良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(1416-16)と述べられている。

 良観らの讒言を信じた後家尼御前や夫人たちは、大聖人に対して、感情的に反発して「天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ弟子等をば又頚を切り或は遠国につかはし或は篭に入れよ」(0322-14)と、大聖人と門下の処分を強く求めるに至たのである。

 それを無視できなくなった幕府は、文永8年(1271)9月10日に大聖人を召喚し、平左衛門尉頼綱が尋問にあたった。それが本抄で「一昨日見参」とのべられていることにあたる。


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