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2019.11.27-2

2019年11月27日 (水) 00:37
2019.11.27

◎1895年のこの日、スウェーデンの化学者ノーベルが、自らの発明したダイナマイトで得た富を人類に貢献した人に与えたいという遺言を書いた。ノーベルの死後、ノーベル財団が設立され、1901年にノーベル賞の第1回受賞式が行われた。

アルフレッド・ベルンハルド・ノーベル
(スウェーデン語: Alfred Bernhard Nobel, 1833年10月21日 - 1896年12月10日)
ダイナマイトの発明で知られるスウェーデンの化学者、発明家、実業家。

ノーベルの遺産を元にした基金168万ポンドの利子が、物理学・化学・生理学医学・文学・平和事業の5分野に貢献した人に贈られている。1969(昭和44)年に経済学賞が追加された。

毎年ノーベルの命日の12月10日に、平和賞はオスロで、その他の賞はストックホルムで授賞式が行われる。

◎クレルモン教会会議(クレルモンきょうかいかいぎ)
1095年11月にクレルモン(現クレルモン=フェラン)で開かれた教会会議で、教皇ウルバヌス2世が招集した。この教会会議は教皇ウルバヌス2世が行った十字軍宣言で有名である。クレルモン公会議とも訳されるが、現在は教会会議と訳されることが多い。クレルモン宗教会議ともいう。

十字軍宣言
ウルバヌス2世は会議の最後に、群集に向けて演説を行った。これは第1回十字軍およびその後約2世紀にわたってカトリック世界のすべての人を巻き込んだ十字軍運動の直接的契機となったことで非常に有名である。彼は東方のキリスト教国(主に東ローマ帝国)の苦難と異教徒に対する聖戦が必要であり、十字軍へ参加した者は罪が許されると訴えた。人々は熱狂し、"Dieu le veult!"(神の望みのままに!)と答えたという(この言葉は史料の不確かさから疑う研究者も多い)。

第1回十字軍(だいいっかいじゅうじぐん、1096年 ? 1099年)は、1095年にローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけにより、キリスト教の聖地エルサレムの回復のために始められた軍事行動。クレルモンにおける教会会議の最後に行われた聖地回復支援の短い呼びかけが、当時の民衆の宗教意識の高まりとあいまって西欧の国々を巻き込む一大運動へと発展した。

十字軍運動においては、一般に考えられているような騎士たちだけではなく一般民衆もエルサレムへ向かった。彼らは戦闘の末にイスラム教徒を破って、同地を1099年7月15日に占領した。そして、エルサレム王国など「十字軍国家」と呼ばれる一群の国家群がパレスティナに出現した。西欧諸国が初めて連携して共通の目標に取り組んだという点で、十字軍運動は欧州史における重大な転換点となった。そしていわゆる「十字軍」を名乗った運動で当初の目的を達成することができたのは、この第1回十字軍が最初で最後となる。

◎第二次世界大戦終結後11年が経過し、1956年(昭和31年)の経済白書が「もはや戦後ではない」と明記し、景気が上昇していた中で、宮内庁は1958年(昭和33年)11月27日、皇室会議が日清製粉社長正田英三郎の長女・美智子を皇太子妃に迎えることを可決したと発表する。

1957年(昭和32年)に聖心女子大学英文科を卒業していた美智子は、その年の夏、皇太子と軽井沢で親善テニス・トーナメントの対戦を通じて出会い、皇太子は美智子の人柄に惹かれて自ら妃候補にと言及したと報道され、皇族か五摂家といった特定の華族から選ばれる皇室の慣例を破り、初の平民出身皇太子妃として注目の的となった。昭和天皇は「皇室に新しい血を」という意向だったとされている。

これに対して正田家は家柄が違い過ぎるとして当初、固辞の姿勢を見せたが、皇太子の「柳行李一つで来てください」との言葉が決め手となって決心を固めたと報道された。しかしこの報道は事実ではなく(「ご学友」橋本明の創作)、のち2001年(平成13年)に行われた天皇の記者会見では「このようなことは私は一言も口にしませんでした」と強く否定、プライバシーと尊厳の重要性に言及し、報道のあり方に疑問を投げかけている[5]。

美智子がテニスで着ていた白地のVネックセーターや白い服装、身につけていたヘアバンド、カメオのブローチ、ストール、白の長手袋などのいわゆるミッチースタイルと呼ばれたファッションが大流行し、ヘアバンドは「ミッチーバンド」と名付けられている。 宮内庁で行われた11月27日の婚約記者会見で美智子が「とてもご清潔でご誠実なご立派な方で心からご信頼申し上げ」と皇太子の印象を述べた発言が大きな注目を集め、「ご清潔でご誠実」は、流行語になった。

☆やなぎごうり(=柳行李)
行李(=こうり)とは、柳(やなぎ)や竹で編(あ)んだ箱形(はこがた)の入れ物のことです。昔はおもに旅行や引っ越しの時に、荷物を入れて運搬(うんぱん)するのに用いられました。今でも衣類の保管などに使われています。

美智子(みちこ、1934年〈昭和9年〉10月20日 - )
日本の第125代天皇・明仁の皇后(在位:1989年〈昭和64年〉1月7日 - 2019年〈平成31年〉4月30日)、上皇后(在位:2019年〈令和元年〉5月1日 - )。皇族。お印は白樺。敬称は陛下[1]。勲等は勲一等宝冠大綬章。旧名は、正田 美智子(しょうだ みちこ)。
            
               
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一昨日御書 0183〜0184
第一章 立正安国の予言の的中を挙げる 0183.01〜0183.08

現代語訳

一昨日、見参したことを喜ばしく思っている。

 そもそもこの世で生きている人で、誰か後世を思わない者があろうか。仏が世に出でられたのは、専ら衆生を救うためであった。ここに日蓮は比丘となってからこのかた、種々の法門を学び、すでに諸仏の本意を覚り、早く出離の大要をえたのである。その要とは妙法蓮華経である。法華一乗の妙法は、三国にわたって崇重され、したがって三国が繁昌したことは眼前に明らかなことであって、誰かこれを疑う者があろうか。

 しかるに人々は専ら法華経の正しい路に背いて、偏に法華経以外の邪な途を行っている。したがって、聖人は国を捨て去り、善神は瞋りをなし、七難が並び起こって、四海は穏やかでない。

 今、世はことごとく関東に帰し、人々は皆、武士の風を貴んでいる。とりわけ日蓮はこの国に生を受けて、どうして我が国のことを思わないでいられようか。そのために立正安国論を述作して、故最明寺入道殿に、宿屋入道を通して見参に入れたのである。

 しかるに近年の間、しばしば西戎蒙古国は牒状を届けて、我が国を窺っている。先年に勘え提出した立正安国論の予言と全く符合したのである。

 かの太公望が殷の国に攻め入ったのは、西伯が礼をもって迎えたからであり、張良が謀をめぐらして秦の国を亡ぼしたのは、漢の高祖の誠意に感じたからである。これらの人は皆、その当時にあって、賞を得ている。謀を帷帳の中に回らし、千里の外に勝利を決した者である。


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