◎11月19日、信長は「尼崎城と花隈城を明け渡せば、おのおのの妻子を助ける」という約束を、村重に代わって有岡城の城守をしていた荒木久左衛門(池田知正)ら荒木の家臣たちと取り交わした。久左衛門らは織田方への人質として妻子を有岡城に残し、尼崎城の村重を説得に行ったが、村重は受け入れず、窮した久左衛門らは妻子を見捨てて出奔してしまった。信長は村重や久左衛門らへの見せしめの為、人質の処刑を命じた。
12月13日、有岡城の女房衆122人が尼崎近くの七松において鉄砲や長刀で殺された。
◎四人組(よにんぐみ)
中国の文化大革命を主導した江青、張春橋、姚文元、王洪文の四名のことを指す。文革四人組とも呼ばれる。なお、中国では四人帮(Sìrén bāng)と呼ばれる。
1976年1月の周恩来国務院総理の死去を契機に、第一次天安門事件などで民衆の反四人組感情が高揚したが、四人組は権力闘争を続け、鄧小平を再度の失脚へ追い込んだ。続く1976年9月9日の毛沢東の死で四人組はその象徴を失ったにもかかわらず、文革路線の堅持を主張して支配を確立しようとしたが、政権は華国鋒国務院総理に引き継がれた。
国防部長(大臣)で反文革派の葉剣英(中華人民共和国元帥)から支持を受けた華国鋒総理らと文革堅持を主張する四人組の対立は、毛沢東の死の直後から急激に表面化し、上海の文革派民兵による砲台明け渡し要求をきっかけに反文革派は四人組の逮捕を決断する。1976年10月6日、四人組は汪東興が率いる8341部隊によって北京で逮捕された。
裁判
1980年11月20日から1981年1月25日までの間、四人組は最高人民法院特別法廷でクーデター計画や幹部および大衆の迫害など、4件の罪状によって裁かれた。
判決とその後
江青
(こう せい、ジャン・チン、ピンイン:Jiāng Qīng。1914年3月 - 1991年5月14日)
中華人民共和国の政治指導者、女優。毛沢東共産党主席の4番目の夫人。
:容疑を全面否認し、1981年に二年間の執行猶予付き死刑判決(後に無期懲役に減刑)。1991年、自殺した。
王 洪文
(おう こうぶん、ワン ホンウェン、1935年12月 - 1992年8月3日)
中国の政治家、四人組の一人。中国共産党中央副主席を務めた。
:容疑を全面的に認め、1981年に無期懲役判決。1992年、肝臓疾患により獄中死。
張 春橋
(ちょう しゅんきょう、ヂャン チュンチャオ、1917年2月1日 - 2005年4月21日)
中国の政治家。四人組の一人であり、中国共産党中央政治局常務委員会委員、国務院副総理(副首相)を務めた。
:黙秘を貫き、1981年に二年間の執行猶予付き死刑判決(後に懲役18年に減刑)。出所後の2005年、胃癌のため死去した。
(88歳没)
姚文元(よう ぶんげん、ヤン ウェンユェン、1931年1月12日 - 2005年12月23日)
中国の政治家、四人組の一人。中国の作家・翻訳家の姚蓬子を父に持つ。
:容疑の一部を認め、1981年に懲役20年判決。出所後の2005年、糖尿病のため死去した。
◎加藤の乱(かとうのらん)
2000年11月に第2次森内閣打倒を目指して与党・自由民主党の加藤紘一・山崎拓らが起こした一連の倒閣運動。
概要
2000年(平成12年)11月20日の衆議院本会議に向けて、野党が森内閣不信任決議案を提出する動きを見せると、加藤紘一(宏池会会長)とその同志の国会議員が、賛成もしくは欠席すると宣言した。これに加藤の盟友である山崎拓(近未来政治研究会会長)が山崎派として同調する構えを見せた。
党幹事長の野中広務による党内引き締めにより加藤の意図は失敗したが、自民党内の混乱は森政権の低落に一層拍車をかけることになった。
当時、加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の3人は自民党次世代のリーダー候補と言われ「YKKトリオ」と呼ばれていたが、この件で加藤・山崎は大きな打撃を負い、結果的に翌年春の自民党総裁選において小泉純一郎が当選し、その伏線となった重大な党内内紛だったと評されている。
党幹事長の野中広務による党内引き締めにより加藤の意図は失敗したが、自民党内の混乱は森政権の低落に一層拍車をかけることになった。
森喜朗
もしこの加藤の乱が成功して内閣不信任決議可決が確実となった場合、解散総選挙を強硬に促していた野中幹事長に反して党内融和を優先して、衆議院解散をせず内閣総辞職し、加藤に政権を渡す予定だったとされる。
自民党の方針転換と反創価学会キャンペーンの終息
自民党は反創価学会キャンペーンを巧みに利用し1996年の衆院選に勝利、新進党は支持母体の一つ創価学会が小沢一郎の政治手法に反発、一部で自民党候補者に投票するなど分裂選挙化し敗北。その後自民党幹事長加藤紘一らによる説得工作に呼応し一部議員が自民党に移籍するなど弱体化、1998年に分裂、解党となった。社会党(後に社民党に改名)は惨敗した。このため、自民党執行部や幹事長の加藤紘一は社会党の連立離脱を想定、参議院で過半数の勢力を維持するため当時参議院で30議席以上を有していた公明党に着目し関係修復を模索、それまでの方針を180度転換させる。
まずは、創価学会側とパイプのあった自民党の旧竹下派が創価学会に接近し、連立政権樹立に向けた協議がスタートする。自民党は創価学会側の要求を受け入れ「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を事実上中止(連載中止ではなくあくまで休止の形をとった)。
同じく池田名誉会長のレイプ疑惑については事実無根だったとして、橋本龍太郎首相(当時)ら自民党執行部が公式に謝罪した。なお、連立政権樹立後には憲法20条を考える会や四月会が解散し、反創価学会キャンペーンは終息した。
その後、1998年の参院選での大敗を経て、翌1999年10月に自民党は自由党との連立政権に公明党を加えることになる。