◎建武式目(けんむしきもく、建武式目条々)
建武3年11月7日(1336年12月10日)、室町幕府の施政方針を示した式目である。御成敗式目と合わせて貞建の式条と呼ばれる。
鎌倉幕府滅亡後に開始された後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、南北朝時代の1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に湊川の戦いで新田義貞・楠木正成らを破り京都へ入り、施政方針を定めた建武式目を制定する。尊氏は後醍醐から三種の神器を接収して光明天皇を即位させ、2年後の1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)に征夷大将軍に任命されて正式に武家政権を成立させた。
尊氏は政務を弟の足利直義に任せており、式目の制定には直義の意思があったとも指摘されている。また、太子信仰の風習から、聖徳太子の制定した十七条憲法に影響されたとも考えられている。鎌倉幕府の「御成敗式目」と並び戦国大名の分国法にも影響をあたえた。
◎ロンドン・ガゼット(英語: The London Gazette)
イギリス政府による公式なGovernment gazetteであり、日本国で言う官報に相当する。イギリスおいて一定の法定通知の発行が必要な公式新聞の中でもっとも重要な存在である。現在も発行されている最古のイングランドの新聞やイギリスにおいても発行が続いている最古の新聞であると主張していて、1665年11月7日に「オックスフォード・ガゼット」として創刊した。
◎1917年11月7日
1917年のこの日、ロシア10月革命でソビエト政権が樹立された。
2月革命でロマノフ王朝が倒され、ケレンスキーらの臨時政府が支配していたが、レーニン、トロツキーらのボルシェビキ(ロシア共産党)が勢力を拡大し、この日(ロシア暦10月25日)、首都ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)で武装蜂起し、労働者らで結成された赤衛軍が政府のある冬宮に突撃した。同じ日に開かれた全ロシア・ソビエト大会で人民委員会が設立され、レーニンが議長に就任した。
十月革命
(じゅうがつかくめい、ロシア語: Октябрьская революция、ラテン文字表記の例:Oktiabr'skaia revoliutsiia)
ロシア革命の一局面。ユリウス暦の1917年10月25日(現在のグレゴリオ暦の11月7日)、ロシアの首都ペトログラード(後のレニングラード、現在のサンクトペテルブルク)で起きた労働者や兵士らによる武装蜂起を発端として始まった革命である。多数の労働者や兵士らを扇動した革命家らによるクーデターとも解される。ソビエト革命あるいはボリシェヴィキ革命とも。
◎1923年(大正12年)には関東大震災に見舞われたが、建設中の新議事堂および第二次仮議事堂は無事だった[4]。しかし1925年(大正14年)9月18日、仮議事堂は改修作業中の作業員の火の不始末から火災を起こして焼失した。このため政府は第三次仮議事堂設置を決め、新議事堂の建設はさらに遅延することになった。仮議事堂は同年12月開会の通常帝国議会に間に合うよう9月29日に建設着手し、昼夜兼行の突貫工事でわずか3か月で建設され、同年12月22日に完成した。
新議事堂の完成が近づいた1936年(昭和11年)2月26日には二・二六事件が発生、陸軍武装青年将校の一群が永田町一帯を占拠した。29日早朝に武力による鎮圧が決定されると、東京湾御台場沖には海軍の軍艦40隻が集結、永田町に艦砲射撃の照準を合わせて反乱軍を威嚇した。
こうした苦難を経て、新議事堂が広田弘毅内閣総理大臣(広田内閣)、冨田幸次郎衆議院議長、近衛文麿貴族院議長など約2800人の来賓を迎えて竣工式を迎えたのは、着工から実に17年を経た1936年(昭和11年)11月7日のことだった。
現議事堂(第70回 - 第92回帝国議会、第1回国会 - )
1936年(昭和11年)11月7日竣功。鉄骨鉄筋コンクリート造り地上3階(中央部分4階)、地下1階。
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2019.11.7
第十章 良観等の妄語の讒奏を破す 0182.03〜0182.07
本文
但し良観上人等弘通する所の法・日蓮が難脱れ難きの間既に露顕せしむ可きか、故に彼の邪義を隠さんが為に諸国の守護・地頭・雑人等を相語らいて言く日蓮並びに弟子等は阿弥陀仏を火に入れ水に流す汝等が大怨敵なりと云云、頚を切れ所領を追い出せ等と勧進するが故に日蓮の身に疵を被り弟子等を殺害に及ぶこと数百人なり、此れ偏に良観・念阿・道阿等の上人の大妄語より出たり心有らん人人は驚く可し怖る可し云云、