◎学習院(がくしゅういん)
旧宮内省の外局として設置された国立学校。1947年(昭和22年)に廃止・民営化され、現在の「学校法人学習院」となり新たに私立学校として再出発した。
1847年(弘化4年)
京都御所日御門前に学習所(京都学習院)が開講する。
1877年(明治10年)華族学校学則制定。神田錦町にて開業式挙行。
初代 立花種恭 1877年 - 1884年 三池藩第8代藩主、子爵
立花 種恭(たちばな たねゆき)
幕末の陸奥下手渡藩の第3代藩主。のち筑後三池藩藩主となり廃藩を迎えた。
天保7年(1836年)、第2代藩主・立花種温の叔父・立花種道(立花種周の五男)の長男として生まれる。嘉永2年(1849年)に種温が死去したため、その養子として跡を継いだ。その翌年、所領のうち伊達郡内の3078石余に代えて筑後三池郡内で5071石を与えられた。
幕末期には佐幕派(幕府を補佐)として行動し、将軍徳川家茂の側近として文久2年(1862年)6月に大番頭となり、長州征伐でも幕府軍として参加した。文久3年(1863年)には若年寄、慶応3年(1867年)には老中格兼会計総裁となるが、翌年3月に罷免された。戊辰戦争では下手渡側の藩士が奥羽越列藩同盟に参加する。だが、既に三池側の藩士の意向で藩論は新政府への恭順に決定され、藩主である種恭も京都に入っていた。この矛盾した行動は、8月に種恭が奥羽鎮撫の命を受けたことで同盟側の知ることとなり、仙台藩によって攻撃され藩庁を焼失した。9月には新政府の命を得て、居を三池に移す。
明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)、廃藩置県により退任した。明治10年(1877年)10月17日から明治17年(1884年)5月24日の間、学習院初代院長を務める。
佐幕といっても、勤王・攘夷の志はあるものの、朝廷より征夷大将軍の宣下を受けて大政を預かっている幕府あってこその尊王攘夷である、という考えを持つものもいた(尊皇佐幕)。孝明天皇は一貫した佐幕主義であり、攘夷の実現や国内の安定に関する幕府への期待は最後まで不変であった。
◎十月事件(じゅうがつじけん)
1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件である。別名錦旗革命事件(きんきかくめいじけん)
1931年9月18日深夜、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発した。当時外務大臣であった幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らの一派と共にこの動きに呼応するクーデターを計画した。
この計画は10月16日には陸軍省や参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎・長勇・田中弥・小原重孝・和知鷹二・根本博・天野辰夫といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。
◎オイルショック(英語: Oil shock)
不景気の通称で1973年(第1次)と1979年(第2次)に始まった(ピークは1980年)、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。石油危機(せきゆきき、英語: Oil crisis)または石油ショックとも称される。OPEC諸国の国際収支黒字は1973年には10億ドルであったが、1974年には約700億ドルに急増。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は1970年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった[1]。世界各国はユーロ債市場から資金を調達した。OECD加盟国は長期の固定金利債を起債することができたが、非産油途上国はカントリーリスクのためにそうした手段がとれず、代わりに負担が大きい変動金利のシンジケートローンに頼った。
第1次オイルショック
発生に至る情勢
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70%引き上げることを発表した。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定した。またアラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。さらに12月23日には、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げる、と決定した。
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第七章 律宗を誑惑の法と論断する 0181.07〜0181.13
これに対し、大乗の戒とは、梵網経の十重禁戒、四十八軽戒など、諸大乗教に説かれる戒をいうが、内容的にはほとんど同じである。ただ衆生を利益する等の利他の項目が入ってくるところに違いがある。
根本的にいって小乗教が戒律中心主義であるのに対して、大乗教の場合は勇猛精進して、よく衆生のために尽くす実践修行が表となり、上求菩薩・下化衆生の菩薩行の実践を進めるために必要なものとされている。しかし、大小の戒といっても、まだ権大乗では小乗の戒に通ずるところが多い。
これに対して、伝教大師が立てたのが法華円頓の戒である。天台法華宗でも、天台大師・妙楽大師などは皆、小乗戒を受持した。それは大乗の精神で小乗戒を借りて用いたのである。それに対して伝教大師は、初めて小乗戒を捨てて法華円頓の大乗戒を設けた。しかし、法華経には円頓戒の法理は説かれてはいるが具体的な戒相は説かれていないので、伝教大師は梵網経の三聚浄戒と十重禁戒、四十八軽戒等を用いて円頓戒の戒相としたのである。