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2019.10.15-6

2019年10月15日 (火) 01:29
2019.10.15

◎ドレフュス事件(ドレフュスじけん、仏: Affaire Dreyfus)
1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部勤務の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。

1898年1月13日号の新聞「オーロール(フランス語版、英語版)」紙は、一面に「私は弾劾する」(フランス語: J'accuse)という大見出しで、作家のエミール・ゾラによる大統領フェリックス・フォール宛ての公開質問状を掲載した。その中でゾラは、軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。

ドレフュスは時の首相により特赦で釈放されたが、その後も無罪を主張し続け、1906年、ようやく無罪判決を勝ち取って名誉を回復することとなった。ドレフュスを擁護した民主主義・共和制擁護派が、その後のフランス政治の主導権を握り、第三共和政はようやく相対的安定を確保することができた。

政教分離の実現 
軍部とカトリック教会の反ユダヤ主義が事件の原因としてあぶり出されることとなり、特に中世以来、フランスのカトリック教会が国家と結びつき、フランス革命で一時分離したものの、ナポレオンのコンコルダートによって復活して国家の保護のもと人権を抑圧していることに対する批判が強まった。そのためドレフュス事件の経過とともにクレマンソーらが結成した急進社会党が台頭し、社会主義政党であるフランス社会党と協力して、1905年に議会で政教分離法を成立させ、カトリック教会と国家を分離する原則が確立した。

エミール・ゾラ
(フランス語: Émile Zola、1840年4月2日 - 1902年9月29日)
フランスの小説家で、自然主義文学の定義者であり、代表的存在でもあった。代表作品は全20作から成るルーゴン・マッカール叢書で、著名作は『ジェルミナール』、『居酒屋』、『ナナ』。

◎『独裁者』
(どくさいしゃ)または『チャップリンの独裁者』
(原題:The Great Dictator)
1940年に公開したアメリカ映画で、チャールズ・チャップリンが監督・製作・脚本・主演を務めた。
公開アメリカ1940年10月15日
上映時間124分

チャップリンが、当時のドイツ国の指導者で、オーストリア併合やポーランド侵攻、ユダヤ人虐待などを行ったアドルフ・ヒトラーの独裁政治を批判した作品で、近隣諸国に対する軍事侵略を進めるヒトラーとファシズムに対して非常に大胆に非難と風刺をしつつ、ヨーロッパにおけるユダヤ人の苦況をコミカルながらも生々しく描いている。

1940年10月15日にアメリカ合衆国で初公開された。当時のアメリカはヒトラーが巻き起こした第二次世界大戦とはいまだ無縁であり、平和を享受していたが、この映画はそんなアメリカの世相からかけ離れた内容だった。

またこの作品は、チャップリン映画初の完全トーキー作品[2]として有名であり、さらにチャップリンの作品の中で最も商業的に成功した作品として映画史に記録されている。

アカデミー賞では作品賞、主演男優賞、助演男優賞(ジャック・オーキー)脚本賞、作曲賞(メレディス・ウィルソン)にノミネートされ、ニューヨーク映画批評家協会賞では主演男優賞を受賞した。また、1997年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

初公開当時にドイツと同盟関係にあった日本では公開されず、日本初公開は第二次世界大戦の終戦から15年、サンフランシスコ講和条約締結から8年後の1960年であった。しかし、日本でもヒットし興業収入は1億6800万円を記録、この年の興業収入第4位となった。

◎山口 百恵
(やまぐち ももえ、1959年(昭和34年)1月17日- )
日本の元歌手、元女優。
本名:三浦 百惠(みうら ももえ、旧姓:山口)。

正式な芸能活動の完全引退は、10月15日のホリプロ20周年記念式典で、その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。

引退時は21歳(22歳の誕生日の約3ヶ月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半程だった。引退までにシングルは31作の累計で1630万枚、LPは45作の累計で434万枚を売り上げ、1970年代最もレコードを売り上げた歌手だった。


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第七章 律宗を誑惑の法と論断する 0181.07〜0181.13

現代語訳

 また、訴状には「日蓮は大乗・小乗の戒律は世間を誑惑する法である、と言っている」とある。

 日蓮が言うには、小乗の戒は釈尊在世のうちから破られたものである。そのうえ、インドの国には三ヵ寺があり、いわゆる一向に小乗戒の寺と、一向に大乗戒の寺と、大乗と小乗の戒を兼ねた寺である。一向小乗と一向大乗とでは、水と火のように違い、道路ですら分け隔てたのである。

 日本国でも、去る聖武皇帝と孝謙天皇との時代に、小乗の戒壇が三ヶ所に建立された。その後、桓武天皇の時代に、伝教大師がこの戒壇を責め、破折された。その理由として、小乗の戒は末代の衆生の機根に当たっていない、と述べている。

 その時、南都の護命と景深の本師寺は、その法論に負けただけでなく、南都六宗の学者は、それぞれ謝り状を捧げて伝教大師に帰依し、法華円頓の戒体を伝受したことが記録されている。

 その状は、いまだに朽ちず現存している。汝自らその状を開いて見なさい。しかるに、良観上人は、当世日本国の小乗の戒には昔の科は存在しないなどと述べている。


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