◎私本太平記(四)
「お疲れでしょう。どうぞおつかまり下さい。韋駄天(いだてん)といそぎまする」
「いいえ」目もくれずーー「千種どの(忠顕)一条どの(行房)いきましょうか」
千種 忠顕(ちくさ ただあき)
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。権中納言・六条有忠の次男。官位は従三位・参議、贈従二位。千種家の祖。
一条行房 いちじょう-ゆきふさ
⇒藤原行房(ふじわらの-ゆきふさ)
鎌倉-南北朝時代の公家,書家。
後醍醐(ごだいご)天皇の近臣。蔵人頭(くろうどのとう),左近衛(さこんえの)中将。建武(けんむ)3=延元元年恒良(つねよし)親王,新田義貞らと越前(えちぜん)(福井県)金ケ崎城へはいり,建武4=延元2年3月6日落城に際して自害。世尊寺家11代の能書で,尊円入道親王に書法をつたえた。号は一条。
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問注得意抄
第三章 師檀相応して大事なることを教える
もし富木常忍が無謀な行動をとるならば、累が大聖人に及んだり、法を下げることになり、大聖人の広宣流布の戦いを妨げる結果となる。大聖人と富木常忍ら在家の信徒とが、心を合わせ、一体となって広宣流布を推進していくことが不可欠であるため、このように「愚言」を呈しているのである、と常忍等に自覚をうながされている。
最初に述べた通り、この問注の結果がどうであったか、直後はもとより、富木常忍に与えられた御手紙、他の御抄のいずれをみても、この問注に触れられたものは残っていない。しかし、少なくとも富木常忍らに悪い結果、例えば所領の没収とか入牢、信仰をやめるとの起請文を書くなどとの裁定は行われていないであろうと推定される。
大聖人がその後、この問注に触れられていないことに最も合理的な推定をするとすれば、問注が急に中止になったことである。大田等、問注所の役人が関係していることから、どちらに転んでも紛糾は避けられないとして、問注直前に中止になったのかもしれない。常忍らに正当性があるのは分かっており、彼らが用意おさおさ怠りないこと、背後に大聖人がおられて、結果如何によっては、公場対決にまで持ち込まれる恐れもあることを観じたとすれば、それも納得がいく。
いずれにしても、大聖人の教えを守って常忍らが行動した結果、以後の大聖人の弘教活動に支障をきたすことはなかったようである。