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2019.2.25

2019年02月25日 (月) 00:05
2019.2.25

◎飯塚と熊本
娘「お父さん、今日はどこに行くと”」
私「飯塚に行く」
「交流?」
「いや、古代史の勉強」
「お母さんと熊本に交流に行ってくるから……これもお父さんのお陰」
「うちは皆、おだてるのが上手になってきたな〜」
妻「上げて上げて上げまくりよ、す〜ぐ登っていくでしょうが、おだて甲斐あるもん」
?

◎福沢諭吉「脱亜論」ー中韓北
「どのようなことにも謝罪しないで逆に威張る」

☆そういえば、中国で交通事故に巻き込まれたら絶対に先に謝ってはいけないと言われたことがある。先に謝った方が負け。日本人はすぐ「すみません」と言ってしまう。

◎鳩山「北海道地震は人災」
道警がデマ認定
「存在そのものが自然災害」

☆野党にはどうしてこんな人間が多いのか?
『頭破作七分』(ずはさしちぶ)

◎韓国「三・一運動」
「独立運動の開始ではなく日本統治安定への転換点」が真実。
誤解とデマにまみれた反日。
自国の責任と捉えられず他国に転嫁。
『一国の宿命転換』

◎約束を守ったシュダマ王(聖教2.24)
嘘をついてはダメ、約束は守る?

日妙聖人御書 1,215ページ
尸羅波羅蜜と申して須陀摩王として・そらごとせざりし功徳等、

尸羅波羅蜜といって、須陀摩王として虚言しなかった功徳、

本抄では、この釈尊の因行としての六波羅蜜の幾つかが、具体的に挙げられている。檀波羅蜜すなわち布施、戸羅波羅蜜すなわち持戒、また忍辱波羅蜜である。六波羅蜜は、菩薩の修行の根幹で、成仏のための必須とされた修行である。爾前経においては、菩薩は、無量劫にわたって、これらの六種を修行し、その結果、はじめて成道しうることができるとされたのである。しかるに法華経は、無量義経をことごとく収めている根源の一法を明かし、この一法を信じ受持するならば、六波羅蜜を長い間にわたって修行しなくとも、自然に具わり、それらを修めた仏とまったく等しくなることが可能であると説いたのである。

◎「農民は………少しも嘘がありません」
(ゴルバチョフ氏、名字の言2.24)

◎ジム・ロジャース氏
「リーマン・ショックから10年………米国経済は右肩上がり………いつかは終わる。
次の経済危機はリーマン・ショックを上回る史上最悪のものになるだろう。………
日本株は………全て売った………
人口減少という構造的な要因に加え、
日銀が大量のお金を刷り続け、日本株や国債を買い支えているのも売りの理由だ。
今後10年、20年は朝鮮半島に熱い視線が注がれるであろう。
北朝鮮は………国民にうそをつき続けるのはもう現実的ではない。………
現金の保有高は多めにしている」

◎「雪を愛でる」
………音もなく降る雪と白銀の世界。
………??

◎古代史連続講座7回目/全8回
(飯塚コスモコモン13:30-17:00)
1)『弥生文化と邪馬台国』
ー鏡からみた邪馬台国の時代ー
辻田純一郎・九州大学准教授
2世紀末〜3世紀中頃
卑弥呼の「胴鏡百枚」(魏志倭人伝)
・どのような鏡?
・なぜ鏡が重視されたか?
?中国鏡(船載鏡)(後漢鏡)(魏晋鏡)
?三角縁神獣鏡(船載)
?倭製鏡(日本列島の鏡)
東アジアでは中国大陸・ 楽浪郡以外ではない現象
どうして倭人は鏡が好きだったのか?
破砕副葬………なんで割ったのか?
なぜか………わかっていない

2)弥生人の信仰
ー青銅器器祭祠と鏡祭祠ー
高島忠平氏
集落からクニへ 
堀を廻らした巨大な集落
単なる道具から青銅器・鉄へ
銅鐸………九州
銅剣………近畿
政治社会………権力………剣………権威………クニ
腰骨に銅剣が突き刺さっていた
たぶん即死
部族の長が戦いの先頭に立って戦う
武力、霊力、スピリット
石垣島・奴児哈赤(ぬるはち)
祭を行う女性の霊力
二重政体の権力象徴として鏡を中国から
   
    
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十一通御書 
平左衛門尉頼綱への御状
第一章再度の諌暁の目的を示す

本書状は文永5年(1268)10月11日、日蓮大聖人が47歳の御時、鎌倉幕府の実力者・平左衛門尉頼綱に与えられた書である。

頼綱は平盛時の子で、平重盛の子孫にあたるところから、平頼綱・平金吾と呼ばれる。また左衛門尉に任じられていたので、平左衛門尉とも称された。

☆左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職のひとつ。左衛門府の判官であり、六位相当の官職であった。五位の者が任ぜられた場合、左衛門大夫または大夫尉という他、検非違使と兼ねた場合には廷尉と俗称された。平家追討において活躍した源義経も任ぜられている。鎌倉時代以降、官職としては有名無実化したが、武士の任官が広くなされるようになるにつれ、左衛門尉などの武官の職は武士から広く好まれるようになり、鎌倉〜江戸期を通じて多くの武将たちが任ぜられるか、受領名として使用されるようになっていった。


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